一時帰国中、宗教学会に参加

 このブログはリール遊民夫婦の手記ということだから、リールから発信するのが本筋かもしれないが、実は先週から一時帰国中である。家内はビザの申請、私は学会と従兄弟の結婚式に参加するというのが主な理由である。
 実は去年も、毎年この時期に行われる宗教学会にあわせて一時帰国した。学会前日に帰ってきたら、時差でものの見事に昼の12時半まで眠ってしまったので、今回はちょっと余裕を持たせて早めに戻ってきた(ちなみに今回の帰国翌日の起床時間は14時だった!)。
 そういうわけで先週末、関西大学で行われた宗教学会に参加してきた。改めて考え直してみると、実は以前から知らないわけではなかったことだなと思うのだが、フランス滞在が3年に及ぶなかでの一時帰国という文脈で学会に参加すると、認識を新たにすることや、一種のカルチャーショックを受けることもある。
「宗教」という言葉の語感について、改めて思ったことなどを、印象的な備忘録として綴っておきたい。
「宗教」という言葉はこんにちの日本の社会ではあまりよいイメージと結びつかないようで、これはとりわけオウム事件以後顕著なことではあるだろうが、あるいはもう少し前のことからかもしれない。とにかく一時期までは、だからこそ宗教学者が、「宗教」は対抗文化としてオルタナティヴを提供するという語り口で、宗教の可能性を積極的に語ることも可能であり、ある意味ではそれが主流でさえあった。しかし今では、「伝統宗教」は魅力がない、「新宗教」は怖い、という社会的イメージが強く、また宗教学者が宗教を持ち上げることの自己反省が促されていることもあって、「宗教」の可能性を語るよりは「スピリチュアリティ」の可能性を語る、という方向へのある程度のシフトが見られる。
この事態は、「宗教」概念の一種の脱魔術的・構造的再検討、つまり「宗教」の規範性をいったん括弧に入れた上で、記述的に「国家」や「政治」などの外部的な概念との関係においてとらえる視点が、宗教研究にとって重要とされる過程とおそらく軌を一にしている。
それに比して「スピリチュアリティ」の方は、概念史の整理がそこまで進んでいない。研究者にとっての規範的な付加価値を担いうるという側面もあるようで、「スピリチュアリティ」という言葉で漠然と指し示される領域について何となく共通了解めいたものがあるにせよ、それぞれの研究者がそれぞれの意味を込めていて、必ずしも整合的に噛み合うものとは限らないようだ。
 すでに「宗教」概念じたいが、構造的な整理では割り切れない複雑性と曖昧性を残した概念なのに、「スピリチュアリティ」概念では複雑性と曖昧性にいっそう拍車がかかり、概念が混乱することは否めない。けれども他方では、これこそが「スピリチュアリティ」概念の魅力でもあるわけだ。
 フランスだと事情は異なってくるだろう。語感上「宗教」(religion)という言葉には、マイナス・イメージは特に付着していない。伝統宗教の衰退は歴然としていても、それを守っている人たちは古い宗教的倫理観を保持しているということで肯定的にも受け取られる。語感上マイナス・イメージを喚起するのは「セクト」とか「原理主義」という言葉であって、「宗教」はそれとは違うという切り分け方が行われているようだ。もちろん「宗教」の持つ暴力性や狂信性に無自覚なわけではないが、「宗教」がネガティヴな要素に還元されてしまうことはない。
 「宗教」以後の「宗教性」を語る場合、「宗教性=宗教的なもの」(religieux)という言葉を普通に記述的に用いることができ(規範性をカバーすることもできる)、ネガティヴなイメージを取り立てて喚起することはない。「スピリチュアリティ」(spiritualité)という言葉は、「神的なもの」(divin)「絶対」(absolu)などと並んで、「宗教性」を表すための言葉のひとつとして使われるが、キリスト教の精霊を喚起する言葉であるから多少個別的な印象も生むようで、一般性を問題にするときはこの言葉はむしろ避けられるきらいがあるように思われる。
 ライシテの国フランスでも、「宗教」から「宗教性」への移行がなかったわけではない。では現代は「宗教性」の再構築が進行しているのか、「宗教性」からさえも離脱しているのか、となると論者によって見解が分かれるようだが、フランス革命以降はたらいていたライックな価値の魔術化が、最近になって動揺しているという認識は、ゴーシェ、ボベロー、ダニエル・エルヴュ=レジェなどをはじめ、割と多くの論客に共有されているようだ。
 今回、日本の宗教学会では、フランスの議論がまだあまり知られていないようだという印象を新たにした。宗教哲学系はともかく、宗教社会学系でこの印象が強い。日本の宗教社会学では、英米系の理論はかなり踏まえられているようだが、ヨーロッパ大陸の議論はあまり入ってこない。日本で吸収されているフランス系宗教社会学はデュルケム、ル・ブラあたりで止まっていると言ったら過言だろうか(宗教人類学の方向に寄ればモース、バタイユジラールあたりまではくだれるだろうけど、ロジェ・バスティドゥなどは日本ではほとんど知られておらず、あとはぽつりとピエール・ルジャンドルということになるのだろうか)。フランスの宗教社会学のアクチュアルな議論、現代フランスの宗教問題の議論はもう少し知られてよいのではないかと思う。これは、自分の位置がマイノリティーであることの僻みというよりも、自分のように非力であってもこの先頑張っていかなければならないのかなということだが、若い人の発表でエルヴュ=レジェの理論を紹介してくれたものがあって、これはよいことだと思った。
 日本語で「宗教」という言葉の語感について別の側面からもうひとつ。「教義」とは別のレベルで「宗教教育」をすることは、公立の中・高等教育や大学教育の現場でも必要だと考えている人たちがいる一方で、例えば「宗教的情操教育」と言うと過去の国家神道の記憶が甦るのだろう、警戒感、反対意見も根強い。このような事情はもとから知っていたつもりだったが、これは宗教学を専門的に研究している若手研究者も当事者として巻き込まれる話だということを今回知った。というのは、一時期あった大学新設バブルがはじけ、倒産する私立大学が出てきており、そこの先生が別の残った大学に流れ込もうとしていて、若い研究者の就職難に拍車がかかるという事情があるようなのだ。つまり「宗教教育」の重要さを「公認」してもらうことは、国公私を問わず、大学における宗教学のポストの数に如実に反映されるというのである。こうして教育政策上も「宗教」という言葉のマイナス・イメージははたらいているようで、身分的にまだ安定していない宗教学者にとっては逆境的な状況が続いているらしい。また、本当かどうか知らないが、裏事情としては、文科省科研費などを申請するのに、「宗教教育」という言葉を前面に押し出すよりも「青少年の健全な育成」というふうに曖昧に持って行った方が、研究費がつきやすいということなどもあるらしい。ずいぶん変な話だなとも思うが、いかにもありそうなことだなとも溜息まじりに思う。(き)