ジョスラン・レトゥルノー氏講演会まとめ

 5月27日に行なわれたジョスラン・レトゥルノー氏の講演会「今日のケベックにはいかなる歴史が必要か」のまとめ。
 レトルノー氏は、「過去」と「歴史」を区別する。過去はいわば生の出来事としての素材であって、組織化さていないのに対し、歴史はそのような過去を秩序立てて語ろうとする一種の物語。過去は複数の歴史を可能にするとも言える。
 ケベックの歴史は伝統的に「悲劇的な運命」というモチーフで語られてきた。1759年にイギリス軍に敗北して以来、「われわれ」フランス系住民は辛酸を舐めさせられながら生き残ってきた、というものだ。
 ところが、1960年代の「静かな革命」以来、近代化を遂げてきたケベックでは、自分自身を肯定的にとらえ直すナショナリズムが台頭してきた。その一方で、移民の増加もあって、社会の多元化がますます意識されてくるようになる。
 「ナショナリスト」が描き出す歴史の主体は、何よりもまずフランコフォンであり、しかるのちに先住民、アングロフォン、アロフォンとなる。これに対し、「レフォルミスト」が描こうとする歴史の主体は、フランコフォン、先住民、アングロフォン、アロフォンを包括するような「われわれ」で、そこには内的な緊張関係がはらまれている。
 このような「包括的なわれわれ」という観点から語られるケベックの歴史は、ヌーヴェル・フランス時代を出発点とするのではない。1759年の戦いも、伝統的な歴史観では、その後の「凋落」を決定づけた「敗北」とされるが、これをイギリス系住民とフランス系住民による社会の「再建」と考えることも可能である。
 しかるに、伝統的な「わかりやすい」歴史物語のほうが一般には受け入れられやすいようで、こちらのほうが人口に膾炙している(ナショナリスト歴史観)。だが、レトルノー氏としては、歴史研究および歴史教育においては、記憶(mémoire)に頼った歴史ではなく、歴史にアプローチする方法(méthode)を重視すべきだと訴えると同時に、こちらのほうがより包括的な「われわれ」を可能にすると説く。育省が2007年に策定した歴史教育のプログラムも、記憶よりも方法を重視している。これにナショナリストが反発している構図になっている。
 私の感想を取り急ぎひとつだけ書いておきたい。ケベックと日本では、原則よりもプラグマティズムを重視するなど、似ているところも案外あったりするのだが、政府のナショナリズムに左派の要素が色濃く認められるか否かが、ものすごく大きな違いではないかと思う。