シタデルの動物園

kiyonobumie2005-08-29

 軽い朝ご飯ならそうでもないが、昼ご飯や夕ご飯の後は、意識が少し沈んで体が重くなる。精神面では、課題が山積みに思え、しかも普段以上に手強く見えてしまう。肉体面では、一番動きたくないときだ。だが、とにかく外に出るとか、動き出してみると案外、気持ちも身体もそこそこ持ちこたえられる。こんなときは、デカルトよりもスピノザが正しい、なんて思ってしまう。あるいは、平野レミ和田誠の習慣はやっぱり健康にいいようだぞ、と。
 それはともかく、そんなわけで、食後に散歩に出たり、半時間ほどしてからゆっくり走りに出たりすることもある。お気に入りのコースはやはりシタデルである。このシタデル、ルイ14世がリールの地を手に入れたとき、ヴォーバンに命じて作らせた城塞で、今でも実は軍事関係の施設となっているのだが、その周りは木々の生い茂るちょっとした森で、リール市民の憩いの場となったり、ジョギング・コースになったりしている。
 昨日の昼食後も、腹ごなしにと思って、シタデル方面に歩きかけて、「そうだ、動物園に行こう」と思った。書き忘れていたが、このシタデルの敷地内には動物園もあって、いつか行こうと前から思っていたのだ。うまい具合にアイデアが降ってきたのは、前日の夜、寝る前に幸田文の『動物のぞき』をパラパラやっていたからにちがいない。地に足の着いた素直な観察眼、気負わずさらりとした描写のなかから、彼女の動物に対する愛情と、それによってとらえられた動物の本質が、自然とにじみ出てくるようになっている。例えば象はこう描かれる。

象舎へ行ってドアから窺うと、四、五尺のそこのところに象はいるのだが、なにしろ大きいものだから象全体は見えなくて、像の巨大なお尻だけ拝謁しているのである。こう近ぢかと見たことははじめてだが、驚くべきうしろすがたである。どこが腰やらあんよやら、境というものがない。ただもうだぶだぶとごそっぽい灰色の皮が、からだから余ったように畳まっている。それでもさすがに下のほうは二本の柱に分れているから、足ははっきりしているが、両足のまんなかにこれはまた貧弱きわまる尻尾が、古いゴムホースみたいにぶらさがっている。

動物のぞき (新潮文庫)

動物のぞき (新潮文庫)

この本をめくったばかりの状態で、動物園も近くにあって、天気のいい日曜日というなら、行ってみたくならない方がどうかしている。
 動物園は子どもよりも大人の方が楽しめるという説には、私も賛成だ。尻尾を第5の手みたいに器用に使うナントカザル、後ろ足で立って初めてかわいげの見えてくるプレーリー・ドッグ、野球ボールのような前足をしたヒョウ、微動だにせずこちらをじっと射すくめてくるフクロウ、古老みたいなキツネザル、胴体で茶筅を操っているようなヤマアラシ、こういうところは幼稚園児にはなかなかわからない面白さだろう。
とはいえ、動物園に来たからには、アフリカやインドの「いかにも」な動物、とりわけ巨獣・猛獣もやっぱり見たいというのは子どもの頃と変わらない。象やチーターやライオンが見られなかったのは残念だったが、サイとシマウマがいた。実に確かな異化効果を与えてくれる。
 サイというのは見れば見るほど、変な顔だなと思う。それでいて、この武骨な顔は時によると精悍に見えたりもする。なにせ、陸上の哺乳類の中では象に次いでの重量選手、ライオンを負かすこともあるくらいだから、敬意を払うのを忘れないでおこう。シマウマは見れば見るほど、模様につり込まれる。これは人でいうと指紋のようなものらしく、親子間での類似はあるものの、一体一体、違うものだそうだ。今どきのアメリカ流の入国審査では、いちいち模様を採取されるシマウマもずいぶんかったるい思いをするだろう。今の時代じゃEbony and Ivory, side by side on me, oh lord why don’t youなんて歌っても、ちと古く受け取られるようだぞ、なんてぼやいているかもしれない。
 冗談はこのくらい。話題変わって、動物は、写真の撮り甲斐がある。動きが入るから思いもかけなかった構図や絵が得られることがある。待ってさえいれば、撮る枚数を厭わなければ、難しすぎるということもないように思う。人のように撮られているという意識が(おそらく)ないからこわばりがなく、また人のようにこちらの指示で動いてくれるわけでないから、そのとき1回きりのものという感じが得られる。というわけで、いくつかアップしておこう。(き)