一参照項としてのフランス

 かつて朔太郎の歌ったあまりに有名な「ふらんすはあまりに遠し」は、飛行機や電子通信網のおかげですっかり時代遅れになった感もあるが、案外そうではないのかもしれない。戦後アメリカべったりで来た日本は、この5年くらいでさらにリベラルな右旋回を遂げた。それによって、フランスとの政治的・心理的な距離は、一時期よりもかえって広がったとさえ思われる。これまで日本におけるフランスの位置がメジャーだった試しはなかったのかもしれないが、近頃さらにマイナーな度合いを強めているようにも見える。けれども、まさにそのために、フランスにある保守的な相貌がかえって日本人には新鮮に映るという効果もあるようだ。おそらく今日、日本がおかしな方向に進んでいるように感じている人は少なくないだろう。けれども、思考回路自体がネオ・リベラリズムにやられてしまっていると、今の循環から抜け出すためのそもそもの筋道をつけることが難しい。そんな今だからこそ、フランスに倣えというのではないが、フランス・モデルの検討がいっそう重要性を増している。
 このような問題意識が現在、少なからぬ日本人フランス研究者に共有されているようだ。いずれも今年刊行された以下の3冊には――他にもあるかもしれないが私が手にとって読んだ範囲でとりあえず――実際そうした問題関心がかなりはっきりと見て取れる。
 ・竹下節子アメリカに「NO」と言える国』文春新書、2006年。
 ・薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義――不平等か、不自由か』光文社新書、2006年。
 ・レジス・ドゥブレ、樋口陽一、三浦信孝、水林章『思想としての<共和国>――日本のデモクラシーのために』みすず書房、2006年。


アメリカに「NO」と言える国 (文春新書)

アメリカに「NO」と言える国 (文春新書)

 竹下節子アメリカに「NO」と言える国』は、アメリカ型のコミュノタリスムにフランス型のユニヴァーサリズムを対置し、今の日本にはフランス型ソシアルの理念を研究することが必要だと説く提言の書。

 今、フランス・モデルを検討することによって、肥大化した資本主義による世界の格差を是正し、地球の環境を守り、紛争の軍事解決を避けるという方向に向かうことは、無批判にアングロサクソン・モデルを採用して弱肉強食へと向かうよりも、日本にとってより必要であり、長期的にはよりサヴァイヴァルの希望のもてる選択ではないだろうか。

 著者の立場からすれば頷けることながら、ユニヴァーサリズムを擁護するあまり、コミュノタリスムばかりがその問題点を指摘されている点はいささか気にかかる。フランス型ユニヴァーサリズムにも問題点は多々あるからである。他にも、著者が論述を進めるなかでしばしば出てくる二分法にそのままついていくのが困難だと思える箇所がある。それでも、在仏30年という経験から、日仏の距離感を自分でつかみ出して論じているのはやはり説得力がある。表現で気に入ったのは、アメリカのポリティクスと日本のエートスのことを指した次のものだ。「アメリカから突きつけられるダブル・スタンダードが〔日本には〕いちいち「ダブル・バインド」になってしまう」。「犬の「連邦」と猫の「連合」」といった比喩も面白い――かなり過激なコントラストではあるが。

 ユニヴァーサリズムに基づいたフランス型の共和国主義は、動物に譬えてみれば「猫」型だと言えるだろう。猫は一匹で狩をし、主従や強弱の関係性を前提として生きない。力で支配することはできないが、その個性を尊重しながらルールを作って共生することは可能だ。国連やヨーロッパ連合などの国の結びつきもこの猫型の延長にある。これに対して、アングロサクソン型のコミュノタリスムは「犬」型だ。犬はヒエラルキーの中における自分の位置と関係性に基づいて生きている。犬型の集団は自由と平等の共和国志向ではなく、リーダーの力と権威をもとにした帝国志向になるだろう。

 竹下氏自身、猫が好きらしく、著者近影は猫と一緒に収まっている。その猫にかどうかはわからないが、とにかく著者は、日本の戦後および現在社会の診断、そして処方となる方向性を「猫」にこう語らせている。読んでちょっとゾクリとさせられた。

 景気の回復や失業率の表向きの減少などだけから成果を計るという発想そのものがネオ・リベラリズムですからね。福祉国家が破綻したら、自助努力とか自己責任という概念が広がります。日本は〔・・・・・・〕本来はもっと「むら」的互助社会だったはずが、戦後あっというまに都市型になり、核家族化したので、コミュノタリスムどころではなくなりました。個人がばらばらに自己中心的、自己勝手になって、それを是正して共同体を回復するコミュノタリスム的な政策をやろうにも、コミュニティ自体がなくなっていたのです。みなが「自己実現」とか「自分探し」に走って、今や家族という最小のコミュニティさえ作れない人が多くなりました。終身雇用で家族的な「会社」が最後のコミュニティみたいなものだったのですが、ネオ・リベラリズムグローバル化によってそれすら失われつつあります。そんな社会で、比較され、計量されて、「負けた人」は、引きこもったり自殺したりということになります。だから、今の日本では、むしろ、ユニヴァーサリズム型の本来の個人主義に拠って、それぞれ力も成果も異なるばらばらの個人が助け合って共通善と共通の快適な暮らしを目指すという猫型政策の方が有効なんです。

日本とフランス 二つの民主主義 (光文社新書)

日本とフランス 二つの民主主義 (光文社新書)

 薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義』は、フランスという国の本領を「平等」を謳っている点に見出し、日本とアメリカが「自由」を前面に打ち出しているのに対比させている。米仏間のコントラストを示しながら、今の日本はフランス型の平等主義を是非とも学ぶべき時期にあると説く姿勢は、竹下氏の態度とかなり共通するものがある。

 21世紀初頭の日本社会は、アメリカ型の自由主義に向けて大きく舵を切りつつあるように思われる。その選択自体が悪いというわけではない。自由主義もまた、妥当な選択肢であるに違いないのだ。ただし、何かを選択するということは、二つ以上の選択肢から一つを選ぶことである。〔・・・・・・〕われわれは、何との比較において自由主義を選んだのであろうか。〔・・・・・・〕
 21世紀の日本には、事実上、自由主義以外の選択肢が存在しない。程度や視点の違いはあれ、ともかくリベラル(自由主義)こそが民主主義だと言わんばかりの状況なのだ。
 〔・・・・・・〕極めて大ざっぱに言うならば、われわれの前には、アメリカ型の自由主義とフランス型の平等主義という二つの選択肢が存在する。少なくとも、存在するはずなのである。アメリカ型の自由主義については、その長所も短所も含めて、われわれは多くのことを知っている。だが、フランス型の平等主義に関する知識や情報は、必ずしも充分なものではないと思われる。

 もっとも、フランス型にも問題点はないわけではなく、その点の自覚については、竹下氏の著作よりも薬師院氏の著作の方に、よりはっきり現れているという印象を受ける。こちらでは、2005年秋の「暴動」についても触れられており、フランス型平等主義の「限界」が論じられている。フランス人が信じる普遍性は、決して普遍ではなく、むしろ特殊フランス的な発想に基づいているのだと指摘されている。
 現代フランスでは、社会の行き詰まりを打開するのに、アングロ・サクソン流の「多文化主義」を何らかの形で取り入れていくべきではないかという声もしばしば聞かれるのだが(右よりの政治家からも、左よりの知識人からも――もっともそのニュアンスはずいぶん違う)、著者の見るところでは、フランスは良くも悪くも「普遍的平等主義のさらなる拡大によって事態を乗り越えようとしている」という。つまりフランスは、現在直面している問題に対し、やはり差別の根絶や機会均等の徹底という方向で解決をはかっているというのである。フランスがグローバリズムにどう反抗・適応するのか、ここでの綱引きの仕方が、近未来のフランスの姿を規定してくることになるのだろう。
 本書を読んでいけば、おのずと著者のだいたいの政治的スタンスが見えてくるだろう。おそらく現代の日本で政治的に表象されうるスタンスとしては、どうしてもマイナーにならざるを得ないタイプのものである。けれども、それだけに、鋭い見方で問題点を指摘しており、その点に頷く人は決して少なくないのではないだろうか(そう思いたい)。
 例えば、日本では公務員削減が税金の有効使用のために何かいいことのように思われているが、公的機関や国営企業が人件費を減らせば、そのぶん外部委託費が増えるのだから、その点も見ないといけないと筆者は主張している。
 質の問題もある。例えば、近年まで地方自治体が行ってきた建築の確認・検査を民間業者に開放したことで何が起こったか。営利企業にとって、時間をかけて厳しい検査をすることは困難であり、その結果、質が落ちるということも大いにあることなのだ。そこで薬師院氏はこう批判する――官に問題があるからといって民間に任せて解決するのは極めて安易な発想だ、と。
 それに、官民を問わず、人件費カットは、目先の数字の点からは魅力的に映るかもしれないが、長い目で見れば、雇用が不安定となり、低額所得者が増え、内需が縮小する恐れがある。この危険も見据えておかなければならないと著者は注意を促している。
 これも本書のなかで指摘されていることだが、フランス社会の特質のひとつに「連帯」という考え方がある。コミュニティー的な仲間意識に基づく協力関係ではなく、同じ社会に暮らす他人同士が個人として協力し合うことだと規定されている。フランス人のなかには、あるマニフェストを直接的にであれ間接的にであれ支えようとする思考回路がある。それは、市民権を与えられた個々人が社会の権力を構成するという意識があるからだろう。おそらくこの点は、(現代)日本社会の感覚では、なかなか理解しにくいところだろう。例えばフランスでは、公務員がよくストライキをする。公共交通機関がかなりの間引き運転をしたり、公共施設が閉まったりする。民間は営利団体だからなかなかストライキができないだろう、したがって、雇用が安定している公務員がストライキをしなければ、いったい誰が勤労者の権利を守るのか、というのがフランスの論理である。さすがにそれが一週間近くに及べば、ぼちぼち周りも不満を発しはじめるのだろうが、公務員のストライキの精神にはかなりの理解が示されているように思われる。日本だと公共機関がストップしたら、税金泥棒と指弾されかねない。
 巻末に紹介されているフランスの社会保障制度の充実ぶりも、日本にもっと知られてよいことだと思う。そこに書かれていることのいくつかの恩恵を、自分も実際に受けている。

思想としての“共和国”―日本のデモクラシーのために

思想としての“共和国”―日本のデモクラシーのために

 レジス・ドゥブレ、樋口陽一、三浦信孝、水林章『思想としての<共和国>』は、アメリカ型の「デモクラシー」社会とフランス型の「共和主義」社会を鋭く対比させたドゥブレによる1989年のエッセーの翻訳を冒頭に(詳細な訳注を含む)、ドゥブレと三浦信孝の対話、水林章の二本の講演、樋口・三浦・水林の鼎談を収めたものである。前の二つの新書に比べると、押しも押されぬ碩学たちの対談、講演、鼎談だからとっつきにくい印象を与えるかもしれないが、正確な言葉で押さえが丁寧に利かされ、非常に明快な議論の展開と主張の提示がなされ、個人的にはかえってこちらの方が手に取って読みやすい。こういう本こそが広い読者層に読まれるといいのに、と思う。大学1、2年生や高校生にも読めるようなものだと思うし、逆にフランス研究を専門にしている者でも、これではじめて知るような情報を見出したり、より広い地平に目を開かれたり、といったことがあるだろう。
 冒頭に訳されたドゥブレ氏のエッセーの内容を、訳者の水林氏自身の言葉を借りて提示するなら、やはりここを引用することになるだろうか。

 ドゥブレが試みたのは〔・・・・・・〕実はフランス型の<共和国(制)>とアングロ・サクソン型の<自由主義的民主主義国家>は根本的に異なるふたつの類型なのだということを明らかにしつつ、同時に、新自由主義的な世界秩序の盟主ともいうべきアメリカの自由主義(〔ドゥブレのいう〕デモクラットとは、民主主義者というよりは自由主義者のことです)を排し、フランス型共和国の理念を擁護することでした。

 水林自身、フランス・モデルの問題点に対して可能な限り自覚的であろうとしながら、ヨーロッパが拡大していくなかでウルトラ自由主義がますます幅を利かせているという状況にあって、それに巻き込まれながらも抵抗しているフランスの「孤独」な姿に共感し、「共和主義的モデルの今後の可能性に期待を寄せたい気がする」と述べている。
 ドゥブレ氏と三浦氏の対談は、随所でドゥブレを追い詰めるきわどい質問があって、面白い。いくら専門家とはいえ、三浦氏にとってフランス語が外国語ということは変わらないのだから、この当意即妙の受け答えと議論の展開の仕方には素直にすごいなあと感激する。
 三浦氏も今まで紹介してきた論者たちと同じく、アメリカとフランスの対立軸に注目しつつ、フランスと日本の対話を促すことの必要性を喚起している。

 われわれがドゥブレを必要とするのは、「古いヨーロッパ」から発するその鋭いアメリカ文明批判ゆえである。日本の戦後は「アメリカの影」抜きに語ることはできない。冷戦が終わってかえってアメリカへの従属が強まったと思われる今の日本には、フランスとの知的交流がますます必要だ。知的交流といっても単なる受け売りでない、創造的な受容と建設的な対話が必要になっている。

 樋口陽一は、海老坂武と並んで、日本の論客のなかで、最も早い段階でドゥブレの1989年論文を発見し、その射程の深さを認識した。それから15年たった今でも、それを日本語に訳して出す価値があると水林章の背中を押した人物でもある。本書では鼎談だけの登場だが、『近代国家の憲法構造』(東大出版会、1994年)なども合わせて読むべきだろう。ここではただ、「鼎談を終えて」のなかで、現代フランスが(も)巻き込まれている問題の本質について、この憲法学者が述べている次のことは示唆的だと言うだけに留めておこう。

 「ただ乗り」で「よいとこ取り」をしようとする構成員が多くなれば、来るべき公共社会そのものが消滅してしまうだろう。

 結論らしきものを付け加えるとしたら、「政治」の面では「危機」と言っていいような今の状況で、日本とフランスの「あいだ」で物事を考え勉強することは、「知性」にとっては「チャンス」かもしれないということ。もっとも日本では、フランスに学べとか、今こそフランスを見よとか言うと、「おフランス」のレッテルを貼られる傾向があるようだから、面倒くさいけれども、それなりに注意しておいた方がいいだろう。それにフランスでも、「フランス的例外」を唱え、「誇り高い孤独」を守ろうとすると、閉じたナショナリズムの方向にいくことがあるから、その点は注意して見ておく必要があるだろう。その観点から言うと、すでに多くの論者が指摘したり、危惧を示してみせたりするように、ドゥブレの位置取りには微妙なところがある。そのこともいずれ、このブログなりで取り上げられればと思う。(き)