自由放任型の自由主義の欠点を克服する新自由主義

 ウィリアム・ローグ『フランス自由主義の展開』ミネルヴァ書房、1998年(原1983年)を読んでいる。
 フランス第三共和政の創設は、政治思想的に言うと、レッセ・フェール的な自由主義を拒み、個人の自由を前提としながらも、民主主義的な共和政としての国家の役割を積極的に認めていくような自由主義のあり方を推進することと連動していた。そして、自由主義の基礎付けもまた、哲学から社会学へと移っていく。

フランス自由主義の展開1870~1914―哲学から社会学へ (MINERVA人文・社会科学叢書 (17))

フランス自由主義の展開1870~1914―哲学から社会学へ (MINERVA人文・社会科学叢書 (17))

 博士課程時代、日本研究からフランス研究に重点を移した頃、この本を読んでいて、たしかに勉強にはなるが、自分の関心とはやや違うと思っていた。自分の関心は宗教史で、この本は政治思想史だという気がしていた。当時の自分には、ちょっと歯が立たなかったということかもしれない。今読み直すと、めっぽう面白い。
 「自由主義」は難物で、経済的自由放任、人権の唱導、政治的自己統治、ブルジョワヒューマニズムといった、互いに関連しつつある程度独立してもいる諸要素の総体でもあれば、ある要素に限定する方向でも用いられる。
 ローグが「新自由主義」と呼んで取り出そうとしているのは、個人的・経済的・哲学的な「旧自由主義」に対し、20世紀の福祉国家を先取りするような意味での自由主義なのだが、私たちがよく聞く「新自由主義」は、多くの場合、経済的な自由競争重視のネオリベを含意している。
 だから、次のような文章をいきなり引くと、私たちは「新自由主義」の語感に一瞬戸惑うのではないだろうか。しかし、落ち着いて読んでみれば、ここにフランス的な――少なくとも近代フランスにおける政治的な――自由主義のエッセンスが凝縮されているようにも思われる文章でもある。

 この新自由主義はかつての自由放任型の個人主義の欠点を克服しようとする試みであったが、しかもその際に、個人の権利と利益を共同体のために犠牲にしようとはしなかった。個人と共同体との程よいバランスを決定することは自由主義政治哲学の中心的課題であり、かつ最も困難な問題であった。