近況

 1か月ぶりの更新。正月明けは、論文2本、コラム1本、校正2本が重なっていて、どうなることかと思っていたけれども、どうにかなった。
 最近は、キネとケベックに取り組んでいる(自分では2Qと呼んでいる)。あとは4月からの授業準備。
 最近思っているのは、この程度のことなら、ブログを更新するより、ツイッターでつぶやくべきだなぁということ。宗教学方面でも、面白い話が飛び交っている。
 でも、いくつか躊躇するところがあるので、やっぱり今は外から遠巻きに眺める程度。
 そういうわけで、今回のエントリーは、連ツイを意識しつつも、ブログを利用してのアウトプット。

サベッジ・システム―植民地主義と比較宗教

サベッジ・システム―植民地主義と比較宗教

(1)「彼らに宗教はない」から「彼らの宗教はこうである」という本質主義的な同定へ。そこには、旅行者、宣教師、植民地官僚がもたらす現地人についての報告を、西洋の体系的な知に組み込んでいくプロセスがあり、またそれは植民地支配を効率的に行なうための政治的戦略と結びついていた。
(2)宗教学という学問が依拠する比較の方法は、植民地支配と共犯関係にあったし、「宗教および諸宗教という用語そのものが植民地状況の産物である」(p.31)。本書は基本的に、オリエンタリズム批判、(ポスト)コロニアリズム批判の系譜に連なる。
(3)しかしこれでは図式的な紹介でしかない。方法論や視点だけでなく、筆者の格闘を読むべきだろう。筆者はフロンティアで起こるさまざまな出来事に注意を促し、西洋から注がれる視線の質を分節化している。個人的には、19世紀前半の試行錯誤と19世紀後半以降の知的体系化という段階の違いが、自分の研究している時代に照らして思い当たるところが多く、興味深かった。
(4)また、この本は、宗教概念批判、宗教学批判でありながら、新たな宗教概念構築や新たな宗教学の提唱に開かれてもいて、希望を抱かせる。フロンティアでは「暴力」が起きやすいが、フロンティアは「多声的」でもあって、「閉じる」方向と「開く」方向に引き裂かれている。
(5)「宗教という用語が、いくら不明瞭で曖昧でも、また、いくら多義的で係争中の問題であっても、この用語は人間の同一性と差異について考えさせる重要な焦点レンズとして機能している。善かれ悪しかれ、我々が現にこの語に縛られている限り、我々は開かれた再定義の可能性を受け入れることで、宗教という範疇に内在する構造的な暴力を最小限にするための努力を絶えず続けなければならないのである」(p.342)。
(6)「宗教の同定可能な諸側面が雲集されるような」「群れ概念」(cluster concept)として宗教を考える観点は興味深い。このような「多元的定義」は、「宗教」のみならず「世俗」や「ライシテ」にも応用できる。私なら、「構成的要素」による定義の試みと言いたいところ。

Secularization, religion and the State
(1)駒場のUTCPとシンガポールの若手研究者によるワークショップ(2010年1月)をもとにした英語論文集。ご恵送いただく。たぶん「出版物」の欄に、近いうちにPDFファイルがアップされるのでは。
(2)宗教概念批判を中心とするここ10年から15年くらいの日本の宗教学の「成果」が、地域研究の領域の若くて優秀な学徒たちに、どのように摂取されているかが見えるようで興味深い。これはフィールドのある宗教学者とも、有益な学術的交流ができるのではないか。
(3)ヨーロッパの政教関係自体、けっして単純ではなく入り組んでいるが、その解明は、複雑な連立二次方程式を解くような感覚で、割とすっきりした数式に還元するためのラインが見えるようなときもある。植民地がらみだと、複雑さがいっそう増し、連立二次方程式のつもりで解いていると、そもそも最初の式の立て方が間違っていた、なんてことになりかねない。これは『サベッジ・システム』とも関係する論点。

ライシテ・サン・フロンティエール
(1)ジャン・ボベロとミシュリーヌ・ミロの共著。2人は、2005年の『世界ライシテ宣言』の中心的執筆者でもある。ライシテの「脱フランス化」の試み。ボベロの『世界のライシテ』Les laïcités dans le monde(PUF, 2007)、ミロの『ライシテ』La laïcité(Novalis, 2008)をもとにしつつ、敷衍的に発展させた本というイメージ。
(2)この本にあるように、私も、ライシテを脱フランス化するには、ロックへの注目がポイントだと思っていた(というか、最近仕上げた論文のひとつは、そういう流れでロックに言及している)。そうすれば、地域的にはフランスからイギリスに目を転じることになるし、時代的にはフランス革命以前の状況にまでさかのぼることになるからだ。
(3)それでもヨーロッパ・キリスト教的ではあることは拭えないかもしれないが、まずはそこからということだ。ロックへの注目は、ボベロの『世界のライシテ』で示唆されていることではあったのだが、この著作では、かなり詳細に論じられている。
(4)ボベロが去年来日していたときに言っていたことだが、フランス語で日本の「ライシテ」を語った最初の日本人研究者は、ボベロの知るかぎりでは「K・マツモト」で、1960年とのことだったが、その書誌情報が載っていた。Matsumoto, K., 1960, « Le problème de la laïcité au Japon », in Centre de sciences politiques de l’Institut d’études juridiques de Nice, Université d’Aix-Marseille, La laïcité, Paris, PUF, pp.563-582. 同じ姓を持つReiji先生によれば、このKはKaoruではないかとのこと。
(5)ミシュリーヌ・ミロは、今年の9月末から10月頭にかけて、来日の予定と伺っている。