花のある生活

結婚してからの生活で変わったことのひとつに、花が身近になったということがある。渡仏してから結婚までの2年半で花を買ったのは、女の友人が論文を完成したときにお祝いにあげたのと、日本人家庭にお呼ばれしたときの2回きりなのだが、結婚から2ヶ月ほどですでにその回数に追いついた。日本人学校のみなさんから立派なガラスの花瓶を結婚祝いにいただいたということもある。その花瓶を抱えて帰ってくる帰り道、牡丹を買い、2日前にはふらりと百合と紅花を買った。
牡丹は薄いのにするか濃いのにするか、店で迷ったが、家内が「昔から薄い色の方が好きなんだけど、近頃ははっきりした色に魅かれてるのよね」と言うので真っ赤な牡丹にした。鼻を近づけると、やや妖艶な感じのにおいがほのかにした。つぼみも混ざっていたのだが、折からの暑さで、あっという間に開いては、萎びてしまった。それでも、美しい女の人が美しく年をとるのを見ているような趣があった。
百合と紅花を買ったのは、アルストロメリアが店頭でもう開ききっていて、まだつぼみだったこちらの方が長持ちしそうだという判断からだった。形としては互いにずいぶん違っているはずなのだが、同じようなオレンジ色をしていて、なかなかよい組み合わせである。
今日はその百合の花粉が背中についてしまって、それに気づいた家内が「百合の花粉は服に付いちゃうとなかなか落ちないのよ」という。すぐに洗わなきゃと思うよりも、よく知っているなと感心するほうに意識が行くのは、私ののんきさかもしれないけれど、それにしても、いつそうした知識や感性を身につけたのだろうか。
――中学生のとき、ちょっとキザな先生がいてね、私わりとかわいがられていたみたいなんだけど、その先生から「よし、おまえを花委員に任命する。クラスに花をたやすな」って言われて。毎回500円くれるんだけど、なかなかそのお金で格好よく花を生けるのって難しくって。いろいろ工夫したわよ。
それはなかなかよい教育法かもしれないと感心したり、それで花についてよく知るようになったのかと秘密の一端がつかめたように思ったり、いろいろと複合的な思いで聞いていたが、そこには、花というとキザな印象を日本だと与えてしまうのはどうしてだろうということも含まれていた。
フランスだと、花を買っても特別キザなことをしているという感じはしない。花を贈るのが、普段と違った背伸びではなく、生活のなかに自然と組み込まれている感じがする。第一、花の育つ国土の広さの違いか、花の値段が高くない。街を彩るためにふんだんに花が活かされていたりもするが、これは花の単価が高ければとてもできないことだろう。また、それが映える湿度や町並みというのもある。花で街を飾るという発想だけ日本に移植しようとしても、根付き方がしっくりいくとは限らない。花を贈られる女性に対する社会的な視線というのもあるかもしれない。美しい女性を、美しいとみんなで讃えるか、各自が密かに愛でるか、となると、日本は後者で、前者はヨーロッパ的という気がしてしまう。決定的に本質的な文化の違いとまでは思わないが、こうした感覚を私が抱くのに理由がある程度には、質的差異の歴史的由来があるはずだと思う。
話題変わって、個々の花が持っている文化的コノテーション、つまり花が文化に応じて喚起するイメージの類似と相違がわかると、こちらで花の名前を覚えることも面白くなってくるだろう。rouge comme une pivoine (牡丹のように赤い)と言えば、恥ずかしさなどから真っ赤になること。日本語ならさしずめ「顔から火が出る」だろうか。紅花はchardon orange(オレンジアザミ)だが、aimable comme un chardon(アザミのように愛らしい)と言えば、不快この上ないという意味になる。皮肉な言い回しの好きなフランス人らしさが出ているように思う。こちらで百合と言えば、もちろんフランス王家の紋章。また、純潔・処女性の象徴で、teint de lisは純白の肌。百合は基本的には白いものというイメージのようだ。
さて、次に我が家の花瓶に生けられるのは何だろう。日本語のロジックならば、牡丹、百合、と来たら次はやっぱり芍薬だろうか。(き)