ツール・ド・フランスの宗教性?

先週の土曜日、ツール・ド・フランスが始まった。フランス人の自転車への愛着ぶりは、自転車競技というものにあまり馴染みのない私のような一日本人にとっては、なかなか理解に到達できるものではない。宗教的とさえ言えるような熱狂ぶりは、日本ではまずお目にかかれない。自転車から出発して想像力を逞しくするよりも、日本で国民的関心を集めているスポーツからの連想したほうがピンと来るだろう。だとすれば、さしずめ甲子園だろうか。
ツール・ド・フランスはフランス人の宗教である、といった物言いは、レトリックとしては面白くても、アカデミックなレベルでは反論されるか無視されるのがおちで、同意はまず勝ち取れないだろう。それでも、こうした物言いが感覚的妥当性にいささかでも適っているのなら、少し立ち止まって分析してみるというのはどうだろうか。
フランスはライシテの国だが、7月は自転車宗教に熱狂すると言えるのではないでしょうか――『リベラシオン』誌は実際このような質問を、2人の宗教学者、オドン・ヴァレとパトリック・カバネルに投げかけている。必ずしもふざけているわけではなくて、自転車競技が盛んな国はフランス、イタリア、スペイン……とカトリック国が多いこと、沿道の人の参加の仕方が祭礼の参加の仕方と似ている節があることなどを踏まえた質問である。
ヴァレは、ツール・ド・フランス組織委員会は本質的にライックで、競技者も沿道の観客もテレビ観戦者も何らかの宗教団体とは原則的に関係ない、と確認し、組織委員会は、宗教色はもちろん、なるべく政治色も出さないようにしているし、それにそもそも人はスポーツしているときは極端に政治的に片寄ることは稀だと指摘する。その上で、ツール・ド・フランスの歴史をフランス現代史と絡めながら論じたジャン・ポール・オリヴィエの本に言及しつ、この競技が極めてフランス的で民衆のノスタルジーを掻き立ててやまないものであることを見て取り、ミサと並ぶ、無料の民衆スペクタルだと述べている。
カバネルも、ツール・ド・フランスは民衆が古き良き時代を思い出せるように構成されていると指摘する。フランスはミシュレが描いたようにひとつの人格としてとらえられ、選手の中継を通して、その様々な表情がひとつひとつ確認されるというのである。例えば「私たちは12世紀のすばらしいシャトーの近くを通り過ぎているところです……」というように。
フランスの歴史に詳しい人なら、「ツール・ド・フランス」と聞いて、自転車競技を思い浮かべながら、「パール・ドゥ・ザンファン」と付け加えたくなるかもしれない。Le tour de la France par deux enfants『2人の子どものフランス巡歴』と言えば、2人の少年がフランス全土を旅して、各地の特産物や歴史を学びながら、成長していくという物語。主人公に自分を重ね合わせ、物語を楽しみながら、国語・地理・歴史が自然に身につくからくりになっているこの本は、第三共和政期に教科書あるいは副読本として用いられたもので、当時の子どもたちが必ず持っていたと言われる大ベストセラーだ(余談ながら、暁星で幼少期の頃からフランス語に親しんでいた森有正も、10代の頃に読みふけったことがあるらしい)。近年の歴史学は、この本を彩っている共和国イデオロギーにも自覚的で、そこに批判的眼差しを向けている。
確かに、こう考えてみると、ノスタルジックな回帰には問題が孕まれていないかどうか、いろいろと注意してみることが必要だと思われる。しかし、「お父さんが小さいころにはな、レイモン・プルドールって強い選手がいてな。憧れてたんだ」といったことを子どもに語れないようなところまで行ったとしたら、今度はそちらの方が恐ろしい。子どものアイドル(偶像)崇拝は、しばしば子どもをまっすぐに導いてくれる。今の選手だって昔の選手に憧れて努力してきたのだろう。親子の間で古きヒーローの伝説が継承されることも素晴らしい。こういった側面の宗教性を尊重することは、ツール・ド・フランスの「見せ方」の枠に潜んでいる宗教性を指摘・分析することに劣らず重要なことではないだろうか。
甲子園もこういう観点から眺めてみたらどうだろう。47都道府県を代表する高校の紹介を通して、実は国境や日本各地の風物を確認していることにもなっているのだ、と。けれども、この種のイデオロギー分析で止まってしまってはつまらない。それとはまったく別の次元で、甲子園は憧れを掻き立ててやまず、語り継がれるヒーローを次々に生んでいく。それと部分的に重なるレベルで、選手をガンバリズムに駆り立てているものは何なのか、という分析も必要になってくるだろう――それは球児にとって目標や意味、達成感を与えてくれるものであり、基本的には非常に積極的に機能するものだけれども、それが過度に打ち出されると、問題がないとは言えない節が往々にある。他の活動や企業の倫理にも、多かれ少なかれこの種の力がしばしば働いていて、その意味においてこれは日本的な宗教性を物語っているのではないだろうか、云々――。
おそらく、自転車への熱意がよく理解できない一日本人にとってツール・ド・フランスが理解しにくいように、野球というものに馴染みの薄い一フランス人にとって甲子園というのはよく理解できないイベントであるだろう。ただ、こういう地平に立って考えると、フランスにおけるツール・ド・フランスの位置の理解と、日本における甲子園の位置の理解は、別々に進むのではなく、同時に進むように思われる。(き)