読み方聞き方が変わるとき

フランス語をえっちらおっちら読んでいく。基本的にはそうやって、自分に関係あるところに線を引いたりなんだりして疲れて止まるところまでいくのだが、時にあるまとまりの構成ががっちりつかめたりする。そんなときは、全体の意味が手に取れるようで、部分部分にも意味が与えられて、思わず声に出して読んでしまう。名朗読者にでもなった気分だ。
音楽もそういうふうに聞こえてきたり、そういうふうにつかめることがある。名演奏が「こういう曲だったのか!」ということを知らせてくれる。音楽家が作曲家を想って、その曲が、あるいはその人が、一つのテーマをめぐっていたはずだと信じて楽譜を読み演奏することは正しいし、その祈りと技術があって、音楽家は現前化し、聴衆に共有される。
このような道の手ほどき程、正しい心と熟練を必要とするものはないが、またこれほど喜びと可能性に満ち溢れたものもない。生徒が読む文章、弾く曲は、まだどこかつかみかねているところがあるわけだが、それを前にして、改善点を指し示すのは非常に難しい。第一に、そちらに引きずられるからだし、第二に、まったく基本ができていないため型の確認からしなければならない場合は別として、すでにその人なりの再現形態があるわけで、そこから先の改善点は誰にとっても未知の世界だからだ。そしてその未知の世界が現出すれば、そこに居合わせた人みなにとっての新しい出来事なのだから。
家内がパリからチェロを借りてきて、バッハの無伴奏を弾いている。音と一緒になって心地よいところに、「ちょっとまとまってきた?」などと訊いてくる。こちらは、与えられている音で満足してしまっているものだから、どうすればもっとよくなるか、なかなかうまく言い当ててあげることができないのだが、もっとよくなるだろうなということはわかる。もののよくわかった音楽指導者というのはここから改善の方向へと導いていくのだから、すごいものである。私としては、作品がもっと作品としての形を取って聞こえてくるようになるのを楽しみに待つばかりである。「チェロ弾きにとって、バッハが無伴奏を書いてくれたということは何という幸せなことかしら」と家内は言う。確かカザルスだったと思うが、バッハを弾くときは毎回違ってくるから、二回として同じように弾いたことはないと語ったことがあるそうな。ふむと思って、ピアノでやってみた私は、すぐ同じようになってしまうのを避けることができなくて、天才と比べる資格は最初からないにしても、まったく何たる凡庸さかと、少々嘆かわしい気持ちに駆られたりもしたものだが、絃の方が毎回表情が違ってくるというのはあるのかもしれない。
同じはずのテーマでも、戻ってくるときの文脈は違うから、一つの人生のなかでも同じことが二度起こることはありえないという話は、ベルクソンの哲学のなかにも出てくる。昨日も同じだった、明日も同じかもしれない、と思ってしまいがちな私(たち)だったりするわけだが、それではその解決策が「手を変え品を変え」という戦略にあるかというともちろんそうではない。むしろ、こういう言葉に接して、その通りと思える状態に引き上げられることもあるわけで、そのようなときは普段と変わらぬことをやっていて新しい。
よい演奏に接すると、その演奏家が初めて楽器に触ったような頃のことを思わず想像してしまう。そして、演奏家に視点を置けば、楽器に通じ、曲を咀嚼し表現していくということが、楽器や曲の方に観点を置けば、それが演奏家を育ててきたことに思いを馳せる。楽器も曲もそれを望んでいたかのようだ。よい文章にも、こうして馴染むことができたら素晴らしい。暗譜と名演奏に無限の距離があるように、暗記できるまで読んで再現することと、それをきちんと表現することのあいだにも無限の距離があるに違いない。(き)