窓からの眺め

通り沿いの窓からの眺め

窓から見る長めに飽きないようでありたいとつくづく思う。
20代の前半までは案外そういうことには平気だった。家のなかで過ごすより外を飛び回ることのほうが多かったからかもしれず、いろいろな情念が渦巻いて外界に目が向いていなくてもいくらでも時間がつぶれてくれたからかもしれない。
20代半ばから4年間いた大学の寮では、草が茂り、木が伸びた中庭に面した部屋で、東京であの値段でと考えれば、捨てた眺めではなかった。枯れ木の輪郭が鮮やかに描き出される冬の小春日和などはすでに春の気配を醸し出していたし、はじめてジジと鳴いた蝉が夏の光景を一息に目の前に描いてくれたこともあったし、残暑が秋に完全に切り替わったことを告げる乾いた空気も覚えている。それでも、部屋の狭さのせいか、内にあった雑念のせいか、当時おかれていた環境からの影響か、この窓からの眺めに癒されることは、むしろたまに訪れる幸福の方に属していた。
それだから、フランスに来て、どういう部屋であろうと、寮の部屋よりはグレード・アップしていると思えて、リールの街中にもう部屋があまり残っていない時期のことでもあり、隣町のトゥールコアンのステュディオに転がり込んだ。2年目からは同じ住所内で違う部屋に移ったが、結局そこにほぼ3年いたことになる。
最初の年の部屋は、15平方メートルという大きさに対して、中庭に向かって窓が西向きに6面取ってあり、異様に明るい印象だった。2階からの眺めで、特別美しい眺望が得られるわけでもなかったが、1年目はフランス生活の新鮮さとかかりきりの論文に熱中して、何の不満もなかった。窓の右手に潰れた工場の煙突が見え、それが霧のときに煙って、見ようによっては工場が再生したかのように見えたのが面白かった。西向きのため、春になって日ごとに日が長くなっていくのが、太陽の沈む位置が大きく移動することからわかったのも印象に焼きついている。4月後半に咲き誇った中庭の藤の花の色と匂いも忘れがたい。
2年目・3年目の部屋は3階で、南向きのchambreに1つ、北向きのcuisineに1つ窓があった。斜めの梁が壁に見えるような最上階で、天井は低く、窓の大きさじたいは小さかったが、なかなかの眺望だった。中庭に面した南向きのは、それを越えてかなり遠くまで見渡せ、煉瓦を基調とした住宅地と工場跡が一望できた。通りに面した北向きの窓の真正面には潰れた工場の屋根が見えるだけだったが、右手には嬉しいことに教会が見え、それが天候や時間につれて様子が変わるのが目を楽しませてくれた。モネのルーアンの大聖堂の真似のつもりで、日本に一時帰国した際に購入したデジカメで連作を作って遊んだりした。
今のリールの部屋も3階で、séjourには通りに面した東向きに背の高い窓が、chambreには中庭に面した西向きにこれまた高い窓がしつらえられている。通りの正面は公証人館で、幾何学的な直線と、レリーフの目立つ、いかにも18世紀風のフランス様式で、フランス留学4年目に差しかかろうとしてようやく、フランスらしい建物が窓から見えるようになった。これに対して中庭側からは、煉瓦で組んだフランドル風の建物が見える。トゥールコアンで見た煉瓦が工場を思わせるのに対して、ここの煉瓦は古くからの街の生活を思わせる。ところで、この中庭には、初めて部屋を下見に来たときには、木が一本立っていて、それがこの部屋の魅力のひとつになっていたのだが、引っ越してきたときには残念ながら切られてしまっていた。心なしか、茂った葉がなくなったぶん開けた視界には、詩情のない真っ白な近代建築が目立つ気がする。さて、我が家には、窓から見える建物にしたがって、séjourを「フランスの間」、chambreを「フランドルの間」と呼ぼうかという案がある。それぞれフランス風・フランドル風に演出できたら、さぞ愉快なことと思う。
窓は室内と外をつなぐ通路であり、内にありながら外を彷徨うことができるし、外界も窓を通して内に入ってくる。気分が滅入っていたり、何かにとらわれていては、窓は無言で何も語りかけてきてはくれない。表情に富む外の変化を伝えてくれる窓とつねにいい関係を保っていたいものである。(き)