第4項としてのコントの実証主義

L’esprit synthétique développe la sympathie…(総合的な精神は共感を発達させる)―Auguste Comte

オーギュスト・コントは一般的に思われているよりもはるかに深い哲学者だ、とアランは言っている。実際そう言わなければならないほど、コントは誤解されていた。弟子たちのうち、リトレらは、コントの実証主義を狭い意味で世に広めたし、ラフィットたちは、師の教えを忠実に守っていると言っては思考停止のマイノリティセクトの域を抜けられなかった。シャルル・モーラスはコントの人類教をカトリックナショナリズムに読み替えてしまった。言ってみれば、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、コントについて3つのタイプの曲解があったところに、アランは第4項として現れた。
 第4項、と言えば、実はコントの実証主義じたいがそのような格好で19世紀前半に登場している。フランス革命後の社会の課題は、何と言っても、乱れた社会秩序をどう再建するかであった。その際、昔の秩序に戻れと唱えた反動派が一方におり、旧弊的なものを一掃して新しい価値観にとって換えようとした進歩派が他方にいた。そして折衷派が、その間を取り持つかのように、古い型を維持しながら自由主義的な要素を取り入れようと努めていた。コントの目には、どれも不完全に映った。復古主義者は、秩序の感覚こそあれ、もはや維持不可能な神学的体系に固執している。進歩主義者は、壊れるべきものを批判する点では必要な使命を果たしているが、建設的なものを作り出せず形而上学的だ。折衷主義者は、原理的に相反するものを無理矢理調停しようとしており、危機を永遠化しているだけだ。実証主義は、こうしたなかで、これら3つのどの立場にも属さぬ第4項として現れた。社会的混乱の真の原因は知的混乱にあると看破し、いったん問題を知の体系化に還元し、その基盤に立って、秩序と進歩の調和した社会を再建する、一大プロジェクトだった。
今の日本には、第4項がない。古い体質の弊害が残っていることは確かだろうから、それを壊す、というのは誤ってはいない。けれども、この改革は「原理主義」的であり、それがモデルとしているものが孕んでいる問題点を見落としてはならないし、恣意的な焦点の当て方によって何が隠蔽されているのかをよく読まなければならない。強者の論理で押すことが改革だという路線でいくなら、国内的にも国際的にも近いうちに手痛い目に遭うのではないだろうか。現にそんな不安と危機感がある。こんなときに、第3項は、お家騒動に便乗しようというだけで、まったく魅力がない。第4項の必要性、すなわちラディカリズムで押すのではなくラディカルに物事をとらえる必要性は感じられているはずだ。けれども、それがない。あるいはまだ見える力としては微かなものだ。
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ふ「なんかわたし、それでも時代は一時期よりはマシになっているような気がするな。」
き「年齢的にも、そこをくぐり抜けた、ということもあるんじゃなくて?」
ふ「それもあるかもしれないけどさ。雑漠とした話になるかもしれないんだけど、私の親の世代って人類学が元気だったのよ。構造主義の影響と余韻っていうの、文明化してしまった人間のひ弱さに対して、野性を取り戻せっていうスローガンが受けたっていうかさ。それが90年代になって、っていうか私が教養にいた頃だけど、人類学が悩みだしたって印象を強く受けたんだな。」
き「さては、ギアツとか、ジェームズ・クリフォードあたりを読まされたかな。異文化に出かけていっても、自分が西欧的な知的形成を遂げている以上その内在的理解は不可能だとか、理解には必然的に西洋的な知の権力が介入してくるとか、そういう自覚的反省と行き詰まり感ね。」
ふ「人類学は傷ついたわけよ。文明に対して野生を突きつける自分たちの行為じたいが、実は極めて文明の側にあったということがショックで、そして自分たちのノスタルジーのためにかえって野生をダメにしてしまったんじゃないか、とか。この前日本に帰ったとき、中沢新一の『カイエ・ソバージュ』でレヴィ=ストロースにオマージュを捧げているのを見て、ああ!と思ったのね。この人、今でもある種80年代的なところにいるわけなのかもしれないけれど、八方塞のところからは抜け出してきたんだって。」
き「「野性を取り戻せ」ってことが再び言えるようになってきたことかな?」
ふ「中沢新一は“スピリット、スピリット”って言ってるね、最近は。」
き「なるほど。で、それがある程度、受けているわけ?ふーん、閉塞感の突破の道がいろんなところで可能になってきている、っていうのはあるのかもね。確かに、今の日本、元気な人はいるよ。でも、言った者勝ちの社会という感じはある。」
ふ「そういう意味じゃ、盲信的にやっている人が強い。他人のことも考えて、精神的な仕事をしている人にはまだキツイ時代かもね。」
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推し量って、総合的に構成する、今の世の中でそんなものすごい事が誰にできるというのだろう。それでも、それを思いながら、局地的に、少しずつ進めている人(たち)がいてくれるのではなかろうかという希望を持っていたい。
他人の気持ちを推し量る「情」サンパシー(sumpatheia(希)=相手の苦しみに参与すること)があって、総合的な「知」サンテーズ(sunthesis(希)=集めること、構成すること)が可能であり、そこから共同的な「意」志シネネルジ(sunergia(希)=共同)が生まれてくることが期待できる。
実はこれはまさに後期コントのモチーフである。彼は、諸科学を体系づけてそれを実践に向けて行こうとしていたときに、折りしも感情の根源的な重要性を発見するのだが、そのような状況で次のように言っている。

« L’éducation universelle ne nous rend d’abord plus sympathiques, et ensuite plus synthétiques que pour nous préparer dignement à être plus synergiques » (SPP II, p.391).
「普遍的な教育によって、私たちはまずより共感的に、次いでより総合的となるが、それというのも、ただひとえに、より尊厳をもって協同的たらんとするに当たっての準備なのである。」

同時代の知を総合的に体系化するなど、コント以後は不可能になり、ヴァレリー(彼もまたコントに敬意を抱いていた)が辛うじて断片的に試みたくらいのもの、というようなことが言われるが、大志の有無はともかく、第4項を形作るものは、懐の深い常識の習慣化の外にはないだろう。(き)