確かな目と態度

 詳しいことは措くけれども、フランスから戻ってくると日本で逆カルチャー・ショックを受けることがいろいろとある。日本語力も低下しているから、意志の方向性は伝えられても、微妙なことに描写が及ばないようで、自分でも歯がゆい思いがすることがある。これが最終的な帰国というのなら、腰を落ち着けて徐々に慣れるということしかないだろう。だがこっちはこれからまたフランスに渡ろうという身である。1ヶ月ほど日本にいる間フランス語力をきちんと維持したかったものだが、何かと雑用にかまけて、力はずいぶんと落ちてしまった感じがしていて、何となく中途半端な印象も拭いきれないが、取り戻そう、取り戻そうと努めて後ろを向いてもなかなか取り戻せないもので、今ここに徹してすべてが歩み寄ってくるのを期するしかないのだろう。
 そんなわけで再渡仏を仕切りなおしのように受け止めたい。もちろん最初と今回は違うわけだが、最初の新鮮な気持ちで物事に接したり、自分が置かれている状況は自明のものではなく周りの人たちの力に支えられてあるのだということを思い起こしたりして、見聞きするものとそれらに対する自分の態度のあり方の関係を、少しずつよい方向に向けていきたい。
思い返してみると、最初の留学を控えていたころは、なるべく日本と西洋の水位を何とか等圧的にしようと心がけていたようだ。圧倒的な影響を受けたのは、吉田健一で、自分の目でものをものに帰そうとする言葉の動きと態度に打たれたものだった。本を読んでいるというよりも、そういう気にさせない言葉の紡ぎ方で言葉の向こうに連れてゆく、そんな効果を与えてくれるのである。
 今回の帰国中、久々に吉田健一の本を何気なく手にとってみた。福原麟太郎の文章の引用箇所があるのだが、この箇所に吉田健一が共鳴したという点からして彼の文章であっても構わないようなところがある。問題なのは2人に共通する態度である。

……〔福原が〕留学を終えて帰国してから二十何年か後に、再びロンドンに行ったときのことを述べた次のような一説がある。

 昔のルートを走るバスがやはりあつた。私はそれに乗つて、四分の一世紀の昔に帰らうとした。いまは夏であるが、春がはじめて訪れたころ、このバスに乗つて同じ道を行つたある日の朝のことは忘れられない。何月も、どんよりとして暗かつた空が、溶けるやうに明るくなつて暖い日光が満ちてゐた。その日光を満身にあびながら、無蓋の二階で、心持よく揺られてゆくと、車掌がとんとんとんとんと上つて来て、サンキウと尻上りに声をかけ、切符を切りにかかつたものだ。その彼も愉快さうに口笛を吹いてゐた。下に見える町通りは、早春にたがはず、いろめいて、古く枯れさびた教会にも芝生が青々と芽を出してゐた。……

                   (福原麟太郎「この世に生きること」)
                     (吉田健一『東西文学論』より)

以前も読んだはずのこの箇所を読んで、息がすうっと入ってきて周りが明るくなった。こういう態度でものを見るのは、硬直した使命感で認識にフィルターをかけることの対極にある。ただ人間がいるとでも言いたい確かさ、何かがわかるとしてそこからしかわかりようがないような信頼感があって、結び目を拵えがちな精神がふうと緩められる。
 水位を等しくしようとすることは、「私」を図々しく押し出すことでもなければ、差異を消去することでもない。むしろ確かな差異が生まれてくるひとつの場であるだろう。観察と批判のただなかの一時的な平衡状態であって、永続が自明ではない点において極めて不安定なものだが、そこからしか確かなものは生まれて来ないし、確からしいものが一種の安定感を漸次的に獲得していくのもそこでしかありえないという点において、辛抱強く信頼を寄せるほかないようなものである。
 これからまたフランスに行く。気負いすぎず、流されず、着実に、をモットーに。(き)