比較教育国際学会報告記

比較教育国際学会の行われたCIEPの建物

 10月19日から21日まで、3日間に渡ってセーブル(パリ)の国際教育研究センター(CIEP)で比較教育国際学会が行われた。主催したのは、比較教育フランス語圏協会(AFEC)とCIEPで、大会のタイトルには「教育、宗教、ライシテ」が掲げられていた。参加しようかどうか最後まで迷ったけれども、結局参加してきた。

(ちなみに、AFECとCIEPのホーム・ページはそれぞれ次の通り。http://afecinfo.free.fr/afec/index.htm http://www.ciep.fr/index.php?ind=1

 詳細な報告はどこか別のところに書くかもしれないし、このブログであんまり詳しく書きすぎても読む方が辟易すると思われるので、簡単に書くが、フランスでは現在、「ライシテ」(フランス型政教分離制度)の原理を定めた1905年法から100周年を迎えており、様々な角度からその歴史の見直しが行われ、また現代の課題について議論が積み重ねられている。この問題をめぐるシンポジウムなどがいろいろと行われており、この大会もそうした流れの一環にあると言える。そうしたなかで、とりわけ今大会の特徴がどこにあるかと言えば、国際的な比較教育の観点から、「宗教教育」や「宗教的事実の教育」に直接焦点が当てられた点にあると言えよう。
 この大会では、3日間で100名近くが発表した。扱われた国や地域も、フランス、ベルギー、イタリア、スペイン、ドイツ、スイス、イギリス、ノルウェーギリシャルーマニアボスニア・ヘルツェゴビナ、トルコ、ロシア、アメリカ合衆国、カナダ、ケベック、ブラジル、イスラエルレバノンパレスティナ、インド、カンボジアアフガニスタンセネガルコンゴカメルーンブルキナファソマダガスカル、と実に広く多岐に渡るものだった。
 実際に私が見聞できたのは、そのうちのごく限られた一部にすぎないけれども、いろいろと新たに学ぶことができたり、「そういうことだったのか!」と思えたりすることがあった。いろんな国の話も興味深かったが、ここではフランスのことでひとつふたつ興味深かった話を書いておこう。
 かつて中学校で歴史の教鞭をとっていたというある年配の研究者は、1970年以来、中等教育の歴史の教科書で、聖書とコーランがどのように扱われてきたかを批判的に論じていた。彼女によれば、コーランは必ず聖書と対照されて、常にキリスト教の観点から扱われているのだという。最近でこそ、この二つの聖典がどの訳に拠っているかが明記されるようになったが、以前はそれさえ記されておらず、またコーランの訳には誤訳と思われるところが散見されるという。「宗教的事実の教育」と言って、実際に聖典を用いるのはいいが、そこには構造的に無理解が内包されているのではないかというのである。
 私としても、フランスの「宗教的事実の教育」には、意識的であれ無意識的であれ、やはりキリスト教的な視点から諸宗教を扱う傾向があるのではないかと訝っていただけに、フランス人がみずからこの傾向に焦点を当てているのは興味深いことだと思った。ただ、会場からは、ここ十年ほどの教育方法の進展は目覚しく、教科書における聖書とコーランの記述に枠を絞って検討するのは逆に恣意的ではないか、教科書とプログラムと教師がどのような関係に置かれているのか、現場で実際にどのような教育が行われているのか、こういったことを総体的に見ていかなければならないのではないかという反論も寄せられた。
 もうひとつ、興味深かったのは、「宗教的事実の教育」は問題解決の万能選手ではないという、教員養成大学院で実際に教鞭を取っている教師の発言だった。彼女によれば、ノール=パ・ド・カレ地方の教員養成大学院では、9時間が宗教的事実に当てられているのに対して、21時間がライシテに当てられているという。普通に見れば、この比重の差が問題になる。宗教的事実が果たして9時間で十分か、宗教についての理解よりもライシテの梃入れの方が重視されているのではないか、という疑問である。ところが彼女は、宗教的事実の教育が9時間でも多い、と言うのである。かといって、ライシテの時間をさらに増やせというのではない。彼女によれば、あたかも宗教的事実の教育さえすれば問題が解決されるかのように話が持っていかれていること自体が問題だというのである。この手の隠蔽では、現実的または象徴的に存在する社会的差別(例えば移民の子弟が就職の際に不利になるなど)が消えることはない。むしろどうしてそのようなことが生じてくるのか、「病理」を抱えた現代フランスの社会的構造の来歴をこそ教えるべきではないかというのである。
 会場の議論に耳を傾けていて、フランスにおける宗教的事実の教育についての今日的課題とは何なのか(あるいはどのような言説が飛び交っているのか)が少しずつ見えてきたように思う。
 やはり重要なのは、多元性、複数性といった概念のようである。宗教的遺産もカトリックに限らず、多元性・複数性がきちんと意識されるべきだということが言われていた。また、宗教的多元性・複数性だけでなく、スピリチュエルな多元性・複数性という言い方も耳にした。この場合スピリチュエルというのは、「宗教的」という言葉に収まりきらない個人の信条や集団の掲げる様々な価値を指すようで、理神論的、無神論的、不可知論的、哲学的などのニュアンスも入ってくるもののようだ(おそらく日本語で言う「スピリチュアリティ」概念とはずれがあるだろう)。
 また、宗教という素材を扱うに当たっての「客観化・対象化」(objectivation)という言葉をよく聞いた。一般社会のレベルでは「ライックな学校で神を教えるのか」という誤解や不信感がまだ消えないようで、これはメディアが混乱を煽っている節もあるとのことだが、それにしっかり対処するために「客観化・対象化」が必要だというのである。
 それから、「問題はフランスだけでない、ヨーロッパ規模なのだ」といった物言いもよく耳にした。今回の参加者には、フランスはライシテの普遍的モデルを提供するものであるよりも、ライシテの一事例にすぎない、という問題意識がかなり共有されていたように思われる。また、それに関連して、ライシテを「フランス的例外」なるものに閉じ込めていてはいけないのだという意識もかなり行き届いていた。
 この点にかんして、果たして日本語に「ライシテ」という言葉が入ってくるだろうかということを思った。今の日本語にライシテという言葉が定着しているとは言いがたいわけだが、ライシテ概念がフランスの専売特許ではなくなっている現在、日本の政教関係や宗教問題をライシテの言葉でとらえてみて、ライシテ概念の鍛えなおしに手を貸すことは、重要なのではないだろうか。というのも、日本が望もうと望むまいと、必ずしもライシテという用語に馴染みのなかった国の実情も、ライシテの語で語られ始めてきているという事実があるからだ。
 このような実情に照らしてみて、二つのことは避けるべきだと思われる。ひとつは、フランス的なライシテを実体視し、その指標で他国の状況を測る「実体的ライシテ概念の投影」である。これでは、フランス文化帝国主義の変形と言われても仕方がないものになりかねない。もうひとつは、ライシテはフランス的例外だと他国の側から決めつけてしまう「ライシテ概念のア・プリオリな拒絶」である。最終的にライシテという言葉がその国の言語に定着するかどうかはさておき、新たな概念形成のプロセスに積極的に棹差す選択が賢明なのではないだろうか。(き)