サン=トロペの日本人 1615−2005

袴裃姿(き)と半纏姿(ふ)にて

 先週末、2人でサン=トロペまで出かけてきた。ニースとマルセイユの中間に位置する、コート・ダジュールの港町である。夏はリゾート地として賑わうこの町に私たちが出かけたのは、390年前の昔を偲ぶイベントのためであった。


 1615年という年は、実は日本人が初めてフランスの地を踏んだ年である。といっても、それは公式訪問ではなくて、かなり偶然の要素に左右されたひとつの出来事であった。1613年、メキシコとの通商に関心を寄せた伊達政宗が、スペイン人宣教師ソテロを正使に立て、支倉常長を副使とし、一行をサン・ファン・バウティスタ号に乗せて、貿易交渉のために太平洋を渡らせた。いわゆる慶長遣欧使節である。メキシコでの交渉は、しかしながら思うように捗らなかった。そこで一行は、宗主国のスペインに渡り、フェリペ3世に謁見。だが、そこでもやはり話はまとまらず、一行がローマに向かおうとしていたときのことである。1615年10月のある日、嵐に遭遇し、それを避けようと船を岸につけたのが、たまたまサン=トロペだったのである。
 この歴史上の出来事は、あまり広くは知られていないかもしれない。けれども、日仏交流史を語る上では重要な出来事であり、しばしば言及されていることも事実である(例えばKeiko Omoto et Francis Macouin, Quand le Japon s’ouvrit au monde : Émile Guimet et les arts d’Asie, Gallimard (Découvertes), 2005 [1990], pp. 22-23, 130-132.を参照)。
 では、仙台とサン=トロペの交流という観点からはどうか。傍から見ると、姉妹都市でも結べばよさそうなものだが、やはり市の規模が違いすぎるということがあるかもしれない(ちなみに仙台はフランスではレンヌと姉妹都市を結んでいる)。これまでは、仙台側もサン=トロペ側も、支倉常長を引き合いに出して、両都市の交流を進めることにはあまり積極的に取り組んではこなかった、というのが実情のようである。
 それが去年、仙台市議会議長の鈴木繁雄氏がはじめてサン=トロペ市を公式訪問した。その際、仙台市にある国宝の支倉常長肖像画のレプリカを贈呈することを約束、つまり今回のイベントはその贈呈にかかわるセレモニーおよび交流会だったわけである。これにちなんで、仙台藩志会が「支倉常長ゆかりの地サン=トロペを訪ねて」というツアーを組んだ。それで、30名余りが仙台からみえたのである。
 当初は、藩志会会長の篤郎先生がみずから団長を務め、フランスに来る予定だったが、高齢のため結局断念せざるを得なかった。こちらで会えるかと思っていただけに残念だったが、「代わりに行って来てほしい」とお願いされては、代役など果たせないこと百も承知ながら、私たち夫婦もできる限りのお手伝いをして、気持ちを伝えることをしなくてはならない。そんなわけで、仙台からの一行に落ち合うべく出かけていったのである。


 私たちは前日からサン=トロペ入りしたが、リールからは案外行きにくかった。なにせサン=トロペには、鉄道の駅がないのである。リールを昼に発って、マルセイユに夕刻着。11月の日は短く、サン=ラファエルに着いた19時頃には、とっぷりと日が落ちていた。夏のヴァカンス・シーズンならば、おそらくまだ船の1本や2本はある時間なのだろうが、そんな気配など微塵も感じられなかった。家内の知り合いに、マルセイユのサッカーチームのファンがいるのだが、サン=トロペに行くという話をしたら、「11月の頭だろ?だったらその時間でも船は普通に出ているさ」などと言っていたが、いい加減なものである。「何とでもなる」と言われれば、そのまま素直に「何とでもなる」と思い込んでしまう家内だが、船の件にかんしては、疑ってかかっていたこちらの予感の方が的中した格好である。それでも、最終のバスを何とかつかまえることができたのだから、変に心配しすぎるよりは楽観論で大きく構えていた方が精神衛生上もいいに違いない。
 21時頃サン=トロペに着いたが、ホテルまでのタクシーも拾えないくらい、と言えばどのくらい寂しい感じかが伝わるだろうか。夏のリゾート町もシーズン・オフともなれば、また小ぢんまりとした港町に逆戻りする。地元のトロペジアンたちのなかには、一晩中賑やかな夏の季節よりも、こうした季節の方が本来の町の息づかいを取り戻すから好きだという人が少なくないが、支倉常長を偲びに来た私たちとしても、ブリジッド・バルドーのおかげで一躍世界的に有名となった高級リゾート地としてのサン=トロペより、およそ400年前の小さな漁港を思わせるサン=トロペの方がしっくり来るように思われた。


 翌日のセレモニーは、海岸沿いから市役所までのパレードではじまった。男性陣は袴に裃に脇差(刀も2名いた)、女性陣は陣羽織あるいは半纏の衣装である。私もレンタルの衣装で正装した。最初は普通に足軽用の陣笠を被っていたのだが、O宮さんのおばあちゃんが、会長の代理で来ているご子息に陣笠なんて被せられないということで、ご主人の兜と交換することになってしまった。篤郎先生なら「ほれ、名前が禍して」とおどけるところだが、こっちはまだ板についていない感じである。とにかく、みなさんのそうした御好意により、パレードもずいぶん前の方を歩かされることになった。
 市庁舎に着くと、居合の演舞、仙台さんさしぐれの歌と踊り、尺八と民謡、フルートと、こちらからの出し物を行った。居合の説明をフランス語に翻訳しておいてほしいという話は事前に伺っていたのだが、そのまま出し物全般の通訳を務める格好になってしまった。こうしてみなさんに非常に立てて頂いたわけだが、おかげで、向こうの副市長に篤郎会長の本をお渡しするという最初の進行予定外だったことまで、すんなりと果たすことができた。
 サン=トロペ側の出し物は、民俗衣装に身を包んだ楽器隊の伴奏に合わせて、これまたやはり民俗衣装を着た老若男女が踊りを披露するものだった。農民風ガボット、田舎風のフレンチ・カンカンなどなど。「あれはね、この地方にもともとある踊りをクラシック・バレエの専門家がアレンジし直しているのよ。これは、サロンで踊ったやつ。足首が見えているでしょ、昔は普通隠す習慣だったから、色っぽいわけよ。こうやって男の人の気を惹いたのね。」こちらがフランス語を理解するとみたトロペジエンヌのおばあちゃんが、気さくに話しかけてきてくれた。
 肖像画贈呈も無事に済み、市庁舎内でのレセプション、蝶の博物館案内、夕食会と、サン=トロペの方々から、非常に歓迎していただいた。翌日にすぐ離れてしまうのはこちらも向こうも名残惜しいという感じだったが、390年前に支倉常長が滞在したときもほんの2、3日だけ、長居は無用とばかりにすぐローマへと向かったようである。それでも、その時の記録がいくらか残っているようだ。「日本の王の一人」イダテ・マッサムーニ(伊達政宗)から派遣されたフィリップ・フランチェスコ・ファシキュラ(支倉)がサン=トロペにやってきたと記されている。今回の仙台藩志会の滞在については、翌日の地方紙が記録している。Var-matin紙11月6日の朝刊である(記事そのものまではどうやら辿り着けないようだが、新聞社のHPは以下の通りwww.varmatin.fr)。見出しは「支倉常長、和のサムライ」である。(き)