安土城の屏風絵探し

 支倉常長関係のことをゆるゆる知っていこうかと思い、遠藤周作の『侍』を読んだりしている。

侍

 そんな状態だったもので、朝日・コムの次の記事が目に留まった。

安土城の屏風絵探し、滋賀・安土町長がローマ法王と謁見
2005年11月23日22時04分

 16世紀に当時のローマ法王グレゴリオ13世に献上した屏風(びょうぶ)絵を探すため、イタリアを訪れた滋賀県安土町の津村孝司町長らが23日午前(日本時間同日夕)、バチカンで現法王ベネディクト16世に謁見(えっけん)した。織田信長の命で描かれた屏風絵が見つかれば、築城からわずか3年で炎上した安土城の外観を知る手がかりになる。

 屏風絵は「安土城之図」と呼ばれる。狩野永徳の作で、安土城天守閣や城下などが詳細に描かれていたとされる。伊東マンショら4人の少年を中心に九州のキリシタン大名らが派遣した天正遣欧使節に、法王へ献上するよう託された。

 1582年に出発した遣欧使節は1585年、ローマに入り、グレゴリオ13世に謁見。屏風絵を含む品々を献上したことがバチカンの記録などに残っている。しかし、法王はまもなく急死。一時はバチカンの宮殿内に掲げられたとされる屏風絵も行方不明となった。

 安土城は信長が1579年、琵琶湖を望む安土山に築いた。壮大な天守閣は「天主」と呼ばれたが、本能寺の変の後に炎上。城の全容がわかる史料は見つかっておらず、構造などをめぐり説が分かれている。

 屏風絵が発見されれば論争に決着がつくとの期待から、安土町は1984年にも滋賀県との合同調査団を欧州へ派遣したが、見つけられなかった。21年ぶりに復活した「絵探し」は、同町国際交流員のイタリア人女性が橋渡しとなって実現した。

 戦国時代の謎というのはいろいろあって、今の文化交流の足がかりにもなるのだなと改めて思う。作家にとっては、調べがいがあり、かつ事実に即して想像力を膨らませる格好の素材なのだろう。
 信長関係では辻邦生が『安土往還記』を書いている。宣教師ではない当時の航海冒険者が郷里の友人に出した書簡が発見され、それを翻訳するという体裁の、史実を踏まえつつ仮構したものである。辻邦生によるこの手の「仮構」は実に素晴らしい。「史実」が「事実」に携わるなら、彼の「歴史文学」はそれを越えて「真実」にまで触れさせてくれる。
 航海冒険者に仮託して描かれる信長像の一断面。

 彼が神仏を信ぜず、偶像を軽蔑し、目に見えるもののほか、何も信じないというのは、なにより、彼が理に適ったことのみに従うという証拠ではないか。その意味では、大殿はカルロ五世よりも現実的であり、ルイ12世、アンリ8世とかけひきしたミラノ公国のアルフォンソより徹底的である。〔…〕彼が執着するのは現世ではなく、この世における道理なのだ。つねに理にかなうようにと、自分を自由に保っているとでもいえようか。ちょうど風見の鶏が風の方向に自在に動けるようにとまっているのと同じだ。彼にとっては、理にかなうことが掟であり、掟をまもるためには、自分自身さえ捧げなければならないのだ。大殿はこの掟を徹底的に、純粋にまもる。いかなる迷いもなく、いかなるためらいもなく、いかなる偏見もなく。〔…〕

 大殿が言う「事が成る」という言葉ほど、彼の行動のすべてを説明するものはない。そして彼は、事の道理に適わなければ、決して事は成らぬ、と信じていたのだ。私は大殿のことを、あの当時、天魔変化とののしった人々に対して、言ってやりたいが、大殿ほどに繊細な感情をもち、この兵法家として名人上手の道を極めるために、自らの感情をこえていった人を知らない。彼はただ非常になることによって、人間に、なにごとかをもたらすという困難な道をえらんだのだ。〔…〕私が大殿のなかに分身を見いだしたと言ったとしても、友よ、それを誇張とは受け取れないでくれたまえ。私は彼のなかに単なる武将を見るのでもない。優れた政治家を見るのでもない。私が彼のなかにみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極限に達しようとする意志である。

安土往還記 (新潮文庫)

安土往還記 (新潮文庫)

 辻邦生はどこかで語っている。歴史小説がリアリティをもつようになるには、資料を読んだりして学んだことが、いったん自分のなかに染み込んで、それが自分を通して出てくることが必要なのだ、と。川中島の合戦について書きたければ、関連資料に囲まれて書いていても、おそらくリアリティーは出てこない。自分の耳で馬のいななきが聞こえるようなところまでいかなければならない。
 この例はとてもよい例だと思う。ところで、このようなことが当てはまるのは、何も歴史小説に限られてはいない。受容体であり創造者である芸術家、さらにはより一般的な生活者にとって本質的なことが言われていると思う。辻邦生を読むと、いつもこういった点について考えさせられる。(き)