学校が始まる その2 セミナー

 さてドゥルーズの論文をあげるぞとさあ意気込んでリール第3大学の哲学科修士課程に入ったはいいものの、いざ始まってみたら、期待していた『差異と反復』の勉強会はなくなっていたし、担当教官のベルクソンの講義は来年からだし、それに何と言っても今期の必修セミナーというのが、4つしかないうちの3つがそれぞれ物理・化学・数学の科学哲学史という思いっきりサイエンスな内容で、ありゃまあこりゃどうしたものかという感じだった。もう一つは芸術の哲学、ということでまあ面白そうだなと思っていたら、段々わかったのだがどうも17世紀に限った話で、やたらパッション・パッションとデカルトの情念論を持ち出してばかりいる(要するにそれだけなのだが・・ああでも読まなきゃ)。とまあそんなわけでやや仕方なく、といった感じで、物理化学史の「色と光の研究史」、「17世紀の芸術の哲学」二つのセミナーを選択したのです。
 私の路線と違うよなあ、とは思いはしたものの、よくよく考えれば、昔から全く違ったものに取り組むことが大好きなのだ。二兎を追うもの一兎をも得ず、どころか三兎ぐらい追っている感じがちょうど、ということが昔はよくあった(余力があればの話です)。いつもそんな風で本題とは別のことばかりに関心を持ってしまうので、これじゃあ何かについて一人前にはなれないぞと自分を戒めていた。だから今回みたいに向こうから本題とは違ったものがやってくると、何だかんだ言いつつ気持ちは大きくそっちに向くのが私の性格だ。これが家でもドゥルーズセミナーでもドゥルーズだったらおそらくまた別のことに興味が走ってしまうだろう。
 さて始まってみたら、ムッシュー・メットの「色と光の研究史」、これが面白かった。前に書いたうっかりで授業はすでに始まっていたので、数回目かの講義は中世キリスト教世界における光の研究がテーマだった。すでに過去数回で古代ギリシアプラトンアリストテレスなどから始まって、1000年前後のアラブ世界あたりまでの話は終わっていた模様。13世紀頃はフランチェスコ会ドミニコ会などの修道院における研究がヨーロッパの学問の中心で、そこではある意味で全ては神学的に説明され、光の研究もつまり神を中心とする世界の説明としてなされたという話。十字軍の遠征後、アリストテレスを消化したアラブの書物がヨーロッパに伝わり、知識人層にそれなりの衝撃を与えた。教会は神の受肉を事実とするキリスト教の世界観とアラブ+アリストテレスの自然哲学の間に統一見解を与えようとし、12〜13世紀頃に様々な学説が生まれた。その最も輝かしい例が「トマ」だと。その後、別の学説の解説で、イレテトミスト(Il était Thomiste)、と先生は授業中に何度も言っていたが、家に帰って調べてやっとわかった、『神学大全』のトマス・アクィナス!―この聖人の登場は私を感動させるのに十分だった(フランス語の直訳調^^ ;;)。例えばアリストテレスの物理学で分類された、「自ら動くもの」「動かされて動くもの」、その最初の「始原的動力」をトマス・アクィナスは「神である」と説明した・・・とはムッシュー・メットの著作 la lumièreより。(この本、初版1981年に出された本だけど、読みやすくて、かなりいい本と思うんです・・訳書出てないのかな。)「知覚できる現象が知の唯一のよりどころ」とし、自然界に神の恩寵を見た・・・という態度はスピノザライプニッツなんかにも通じる部分があるのでは?と思ってしまう。このあたりは、レポート課題として自分で調べようと思っているところ。
 またThomas d'aquinは「ドクター・アンジェリク(天使博士?)」と呼ばれていたそうで、フラ・アンジェリコもトミストだったんだとは先生の話。フラ・アンジェリコの絵画は全てトミスト的宇宙観を表現したものだということ。何かこう・・美しーい優しい光が天からきらきら降ってくる感じが漂って来そうで、よく知りもしないで少しうっとりとしているのでした。
 またこの先生が素敵なんだってば。嬉しそうに話すいかにもな明るいサイエンティスト、って感じのおじいちゃんで(と言っては失礼かも)。光とか虹とか研究してるだけあって、眼もきらきらしてて、2時間ぶっ通しの授業はまじでしんどいんですが、がんばっちゃうのです。(ふ)