ライシテ関連のコロックふたつ

Institut de France

 ライシテ関係で、また新たに2つのコロックに参加してきたので、それにちなんだよしなしごとについて覚え書きを残しておきたい。
 ひとつは11月26日、ノール県の自由思想連盟がリール第一大学のエスパス・キュルチュールを借りて行ったもの。もうひとつは11月28日から30日にかけて、パリの学士院(1日目はquai de Conti、2日目3日目は rue Alfred de Vigny)で行われた、アカデミー(Académie des Sciences morales et politiques)主催の「公式」コロック(第4回=最終回)である。
 2つのコロックの特徴を対照的にとらえるなら、自由思想連盟主催の方は1905年法を「民意主導」でできたものとして眺めたがっていたのに対して、アカデミー主催の方は「議会主導」に力点を置いていたと言うことができよう。
 ライシテを現出したのは、ひとつの流派や党派に限られない。自由思想家、急進党、社会党、フリー・メーソンなどなど、いろいろなアクターがそれに与ったというのが現実である。よって、立場があると、その立場から、自分たちの「貢献」を語るスタンスになりがちだということなのだろう。
 ジョルジュ・ヴェイユは、その古典的著作Histoire de l’idée laïque en France au XIXe siècle(1929年刊、ほとんど入手不可能で私も欲しい欲しいと思いながらBNFマイクロフィルムでひいこら読んでいたが、ありがたいことに2004年に復刊された)のなかで、ライックなものの考え方は19世紀を通じて発展したが、とりわけ4つの思想潮流がそれを推し進めたというテーゼを打ち出している(ローマに対するフランス教会の独立を唱えるガリカニスム自由主義プロテスタンティズム、クザンの流れの折衷主義的理神論者、それから反教権主義的な自由思想家)。
 ライシテのように、なかなか実体的にとらえることを許さない概念に対しては、このような複眼的なとらえかたが有効だと思う。立場からの「貢献」を語ろうとすると、理念的な実体概念から出発してその構成要素を見つける格好になりがちなのに対して、潮流を整理しつつ、対象自体をもその流れのなかに置くのであれば、動きのなかで、しかも的確にとらえることができる(そのような作業をする視点が置かれている時と場について自覚的である必要はあるだろうが)。
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 さて、個人的には、26日の発表のなかでは特に2つの発表が、それぞれ違った意味で興味深かった。
 ひとつは、アルトワ大学法学部長のシャルル・クテル氏の発表「ライシテ−普遍的価値?」。クエスチョン・マークがついているのは、きっとフランス的普遍をもはや素朴に振りかざすことはできないというポス・コロ的反省を踏まえ、その上でなお普遍性を模索する努力なのだろうとこちらは勝手に早合点していたのだが、いざ話が始まると、ここまで強行に言ってしまうのかと、あっけに取られてしまうようなものだった。
 開口一番「私はタイトルにクエスチョン・マークをつけましたけど、これが近いうちに消えてくれればと思っているのです」。そのためにはまず、「多くのフランス人はライシテについての理解度が極めて低い」ので、その「認知度を上げて」いかなければならない(解決策のひとつは「大学の図書館を充実させる」なのだそうだ)。次に、ライシテを「現存する政治的・宗教的なイデオロギーの障害」から守っていく必要がある。それから、「フランス的普遍主義は現在危機に瀕しており、それを打ち出すことをどうやら恥かしがっている風潮があるようだ」が、「そのようなことは早いところやめなければならない」。
 そこで引き合いに出されたのがバンリューの「暴動」。「共和主義的普遍主義が共同体主義の台頭によって後退させられているいい見本」だというのである。確かに、ライシテの問題と暴動の問題は関連しているだろうし、暴動の沈静化は早急になされなければならないことも当然その通りだろう。けれども、原因を歴史的・社会的に深く追究するには、(もとより個人的な信条は自由だが)共和主義的普遍主義の復権はむしろ一度括弧に入れておくべきなのではないだろうか。緊急性のある問題を持ち出して、時間をかけるべき問題をも早急に解決すべき問題なのだと故意に混同しているのではないだろうか。
 やれやれ、フランスからすぐに普遍へと論を進めたがる人は今の大学人にもやはり少なくないのだなと思わされた。これじゃ話をしたとしても「またライシテについて無知な外国人に会った」くらいにしか思われないのだろうなと想像すると、いささか気が滅入った。
 そんな状態だったものだから、ジェラール・デルフォー氏の発表「国家の中立性と公共企業」は私にはなおさら貴重に映った。タイトル自体からはあまり関心をそそられなかったのだが、「ライシテは教会と国家の分離以上のものであり、国家の宗教に対する中立性以上のものである」と語り出したものだから、意識が目覚めた。
 少し説明が必要だろう。1905年法から100周年ということで、昨今ライシテ関係の研究が非常に進んでいるのだが、ライシテを「良心の自由」(信教の自由)、「政教分離」、「国家の中立性」という主に3本の柱で、法律的に説明して事足れりとする立場が実は案外多いのである。思想史的・社会的・歴史的にライシテをもう少し広く取って、その国家的価値の側面に対する批判的分析や、個人の信条の側面がライックな語彙でいかに語られているかを問題化する視点などは、思いのほか少ないのである。
 デルフォー氏の発表が貴重に思えたのは、法的なプロセスを辿っていく立場でありながら、ライシテは哲学以上のものであり、生き方の問題だときっぱり述べている点で、広義のライシテ概念の一例と見なすことができる。
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 パリのコロックは、さすがはアカデミー主催、学士院の畏怖堂々たる様に打たれ、つまりいささか窮屈でもあって、それでゆるゆると部分的に参加してきた(それに他の用事もあったので)。
 初日の収穫は、ジョレス協会の会長が来られなくなって、急遽ピンチ・ヒッターを務めたジャクリーヌ・ラルエットの発表が生で聞けたこと。それから、これまで私が参加したコロックでは聞いたことのない聖職者の立場からの発表(カトリック司教、プロテスタント牧師、ユダヤ教のラビ、それからイスラム教、仏教の立場からの発表もあった)が聞けたこと。
 2日目は、ポール・アリオー氏の発表が圧倒的に面白かった。名前を聞いたことがあるから、確かライシテについての本を出しているはず、というくらいの認識で何となく聞きに行ったのだが、思った以上に若かった(さすがに30は回っていると思うが、20代と言われても驚かない)。発表の骨子は、ライシテの枠組みにおいて宗教は「私的」なものとされるときに、「良心の自由」と「礼拝の自由」の両側面があるはずなのだが、前者に引き付けた言説・解釈があって、宗教に社会的側面があることはもちろん認められているはずなのに、宗教の社会的可視化を押えるような力学がはたらいているということを示したものだった。宗教の「私事化」「個人化」を19世紀フランスの宗教概念の変遷の軸に据え、1905年法は「宗教」(religion)を「礼拝」(culte)に還元するものであったと読み解いたのはなかなかスリリングだった。また、1905年法前後、「宗教は個人の心情にかかわるもの」という言説が、いかに礼拝の社会的側面に「教権主義」のレッテルを貼ることとリンクしていたかを示した手腕はお見事だった。
 3日目の収穫は、公教育省のティエリ=グザヴィエ・ジラルド氏が、これ見よがしの宗教的表徴の禁止にかかわる2004年3月15日法の施行以降の「成果」を示してくれたこと。発表後、クロークの順番待ちでたまたま彼の前になったら、きれいな日本語の発音で「日本の方ですか」と話しかけられた。そのまま日本語で少し喋ったが、なかなか上手でびっくりした。奥さんが日本人だそうで、それにしてもこう気さくに話しかけて下さったのはありがたかった。
 教育連盟のシャルル・コント氏の「ライシテに積極的な定義を与えうるか?」は、とても聞きやすい発表だった。定冠詞のラ・ライシテを定義するのは難しいが、ライシテには例えばこのような諸相があると、いろいろと示してくれたのは要点を得てわかりやすかった。
 ギー・コック氏の「ライシテ、普遍的価値」(しかもクエスチョン・マークなし)は、26日のクテル氏のような発表になってしまうのだろうかと思っていたら、普遍かどうかは「私たち」が決めるのではなく「被害者」の側が決めるべきだ、と述べていて、フランスから一直線に普遍を宣言するのではなく、「迂回路」が用意されていた。
 コロックの最後を飾ったのはジャン・ボベロー氏。2005年が1905年を見る目に対する批判的考察が含まれていて面白かった。これまで、1905年法は、エミール・コンブ流の「反教権主義」が行き着いた結果としばしば見なされてきたが、今回の100周年に当たっては、法案の作成者はアリスティッド・ブリアンであり、1905年法は2つのフランスの争いに終止符を打つような「自由主義」的な法律、「平和」の法律なのだ、というのがオフィシアルなメッセージであったように思う、と氏は指摘した。しかし、近年の社会的変動のなかでライシテも転機を迎えているときに、ライシテというものは自由で平和なものなのだと強調することには、一抹の問題が含まれていないだろうかというのだった。
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 PS. 本ブログは勉強ブログというより、お気楽ブログのつもりではじめたのだけれども、嬉しいことにライシテ関係の記事を読んで下さっている方もいることを認識しはじめているところです(ありがとうございます)。そういった方面の記事もこれからちょこちょこ書いていこうかと思いますが、能天気な記事も書いていきますので、ご了承のほどを。(き)