面談延期につき

 フランスでの指導教官との今年最後の面談が来週にあって、なんとか博論の第1章を形にしてお渡ししたいと思って頑張っていたが、用事が入ってしまったとのことで来年に延期。拍子抜けしてがっかりしたような、どっちにしろこのペースでは間に合わないと思っていただけにほっとしたような。フランス語としてしっかり書けているかどうかはともかく、ここ何日か強行軍で先に進めたのはある意味ではこのプレッシャーのおかげ。しかし、私のタイプからして、追い詰められたときに思いきり速度が上がるわけではなくて、普段の2割増程度の速度で進むことができるにすぎない。そのくせ異様に消耗してしまうので、やはり日頃からコツコツというのが性に合っているのかもしれない。しかし日がな一日、同じひとつのことばかり思いつめているのでは、先に行けば行くほど理解力を失ってしまう。
 実はこれ、アランからの一節。

知力の足らない人、つまり脆いあたまの人は、日がな一日、同じ一つのことばかり思いつめているものだ。そして先にゆけばゆくほど、理解力を失ってしまう。……私はときどき、生まれたときから疲れっぱなしの思想家たちに向かって、いってやりたい気持ちに駆られる。眠るすべ、思考を日延べするすべ、笑うすべ、どれひとつとして、あなた方はご存じないようだ。……ねじれが顔にくっきりと残っている。ミケランジェロの作った、思いにふける彫像のように、ほんとうの思考者は、子供っぽい顔をしているものだ。それはつまり、何ひとつ考えずにいるというあの策略を、彼が活用している証拠である。

 

 『文学論集』杉本秀太郎訳からの引用(中公バックス「世界の名著」)なのだが、こうやって実際に引用してみると、いろんなことがくさぐさに頭に浮かぶ。
 やっぱり本物の仕事は、しっかりした生活態度からしか生まれて来ないよな、とか。人の話に耳を傾けるのは大切だけれども、人の言うことを聞かない(というか変な影響を受けない)ことも大切だな、とか。これがnégation non négativeってやつだな、とか。そうした一種の無関心の組織をするには、フランスで書きかけの論文を抱えて生活するということは、それなりの苦労もあれ、実に恵まれた環境だな、とか。日本でこれはなかなかできそうにないな、とか。
 それから、アランはいろんな人が訳しているけど、杉本訳が自分には一番いいように思われる、とか。中公バックスの「世界の名著」シリーズは古びないいい訳が多いよな、とか(今手元には「アラン・ヴァレリー」の巻のほか、「コント・スペンサー」「ベルクソン」があるが、いずれも大変役に立っている)。アランはプロポという形式で日々の思考を実践したわけだけど、現代に生きていたら、彼のブログは結構人気出るんじゃないか、とか。
 切れ切れの思いつきに想像力の翼をつけて、飛び上がってみるのは楽しいことだ。しかも案外、根拠がなくもないんじゃないかと思う。私的な思い込みは閉じられた世界につきものだが、主観的な直観は膨大なデータを踏まえつつ世界とのかかわりにおいてはたらく。経験をもとに見取図を描くことは、想像に規律を与えることであり、その見取図は日々の仕事によって具体的な形を取ってゆき、いっそう微妙で精緻な直観のはたらきを待つ。
 しかしどうもこうやって自分の思考を確かなものにしたがっているようだ。書いてみると、考えたことに対して実に貧弱に思えるし、この程度のことならずいぶん前からわかっていたはずだ、としか思えない。けれども、書いていくことによってしか殻も破れない。よくできていると言うべきか、なかなか思うようにいかないと言うべきか。
 しこうして思考したあとは、思考から離れるすべも学ぶべきということで、ちょうど先ほど友人から電話がかかってきて、近所のバーに飲みにいかないかと。面談延期の話がなければ、間違いなく断ったところだが、今となっては断る理由もない。行って参ります(き)。