1905年法から100年も暮れて

 1905年法発布からちょうど100年後の12月9日にでもあわせて、何かライシテ関係でまとまった記事でも書ければと思っていたが、コントにかかりきりで、かなわなかった。じゃあクリスマスにでもあわせて、リールのとある教会のことをライシテの歴史と絡めてレポートしようと思っていたら、あれよあれよという間に逃してしまった。
 むむ、このままでは2005年は終われん!せめて1905年法にちなんで何か書いておきたい。そのようなわけで、1905年法が国民議会でどう審議されたのか、その最も核となるラインを示しておくことにしよう。文脈がわかるように、ちょっと長めの前置きから話を説き起こすことにしたい。
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 実は、フランスの歴史で政教分離が定められたのは1905年が最初ではない。革命期の1795年、すでに最初の政教分離法が定められている。ただしこれは、宗教的自由を「個人」の領域に限ろうとするもので「集団」の権利を認めるものとは言えなかった。また、これは当然カトリックの反発を招き、コンコルダまでのわずか6年しか続かなかった。
 1871年パリ・コミューンのときにも、政教分離が定められた。ただし、これまた短命に終わっている。直後には「道徳秩序期」(l’ordre moral)として知られる反動的な体制が王党派によって現出された。
 政教分離という課題項目は、少なくとも第二帝政後期には、共和派が構想する政教関係のなかに表れているが、過去に二度なされた政教分離が招いた結果がこのようなものだっただけに、共和派としては慎重になることを余儀なくされた。実際、1879年に「共和派による共和政」が達成されるが、共和派はすぐに政教分離には踏み切らなかった。普仏戦争後という文脈では、国民の統一こそ最重要課題で、国内のカトリックを敵とするわけにはいかなかったという事情もあるだろう。初等教育のライシザシオンを推し進めたジュール・フェリーは、「政治的カトリック」と「宗教的カトリック」を区別、前者を「教権主義」と批判しカトリックヘゲモニーの切り崩しにかかるが、後者については彼自身の信条はともかく批判を差し控えた。公立校は「ライック」だとして譲らなかったが、私立校でのカトリック教育は認めている。政教分離はいずれ達成すべき課題だとしても、現時点では時期尚早だ、というのが彼の考えだった。コンコルダ体制の枠内で教会に対する規制を強めた方が現実的で得策だ、と彼の目には映っていた。
 教育は次の世代の意識に反映される。公的なものはライックで、宗教は私的なもの、という考え方に人びとが馴染んでいく。ちょうどそのようなとき、ドレフュス事件が起こり、国内の世論が二分され、教権主義と反教権主義がこれまでになかったほどの激しさで衝突する。
 このような文脈で1899年に権力の座に就いたワルデック=ルソーは、修道会に対する闘争を開始する。1901年、結社にかんする法律が制定され、申告なしでも自由に結社できる権利が国民に与えられるのだが、修道会に限ってはその法的存在が議会の許可に従うものとされた。ワルデック=ルソーのあとを襲ったエミール・コンブも反強権主義的闘争を継続、非認可修道会を閉鎖するほか、修道士が教育に携わること自体をも禁止、教皇庁との断絶を引き起こすことになる。
 当然のことながら、このコンブ、カトリック側からは悪魔呼ばわりされている。当時のカリカチュアを見ると、コンブはよく尻尾を生やしていたり、悪魔が持っている三叉を手にしていたりする。言ってみれば、反教権主義の権化なのだが、人物としては複雑なところがある。彼は、神学校出身ながら反カトリックに転じ、それでいて自分はつねに「熱心なスピリチュアリスト」であったと1907年の回想録で述べている。また、この反教権主義者は、アルジェリアのカルメル修道院院長ビベスコ夫人と愛情関係にもあった。多作なボベロー氏は、これに注目して、コンブとビベスコの恋愛について小説も書いている*1
 さて、このコンブが極めて「反教権主義的」な政教分離法を成立させようとするのだが、カトリックはもちろん反対。ところで、この強硬路線に対しては、社会主義者や共和主義者のなかにも、反対意見、消極的な意見が存在した。このようななかで、ジャン・ジョレスが『ユマニテ』紙上で、レイモン・ポワンカレが『フィガロ』紙上でそれぞれ論陣を張り、宗教を破壊するのではなく、ライシテ体制のなかで宗教に自由を与える、いわゆる「自由主義的」な政教分離路線を主張した。コンブ内閣は1905年1月に退陣、政教分離にかんする法案の審議は、そのようなわけでより穏健、より自由主義的な方向にシフトしつつあるなかで行われた。
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 前置きが長くなったが、国民議会で審議されたのは、1905年3月21日から7月3日まで。
 ‐3月21日、最初の審議は、先決動議(motion préjudicielle)で幕を開けた。つまり政教分離の原理自体を論難して、法案を取り下げさせようというアクションである。自らのことをカトリック共和派と称するゲロー神父(l’abée Gayraud)は、次のように述べている。

教会と国家の理想的な関係は、分離ではないのです。私たちの理想は、市民社会と宗教的社会の結合なのです。……1801年のコンコルダ体制はこの理想を実現していません。そう、違うのです。メシドールのコンコルダが、2つの権力の関係についてのカトリックの教義を忠実に表現しているなどと、どうかお思いにならないでいただきたい。……しかし、それでも私は、あなたたちが行おうとしている分離よりはコンコルダ体制の方がまだしも、と述べて憚らないのであります。……分離などということをしたら、教会は実際問題わが国では他のアソシアシオンと同じというようなことになってしまいます。

 ゲローはこのように述べて、政教分離の審議などよりも、関係の断絶しているヴァチカンとの和解が先だと主張する。けれどもこの動議は反対多数で否決された。政教分離そのものに反対する「右」寄りの見解が、これではじかれたわけである。
次に、自由主義的な分離に対する懸念、批判の代表例を2つ見ておこう。
 ‐3月27日、シャルル・ブノワ(Charles Benoist)は、中道・中道右派の意見を代弁する格好で、極度に自由主義的な法案に懸念を示している。もしも、自由主義的な政教分離にしてしまったら、共和国の内部にカトリックという厄介な敵を抱え込むことになる、というのが論旨である。

あなた方はライックな国家を望んでおられる。私も同意見です。……近代国家というのは……まさに国家の領域と教会の領域を分割することに存するのです。……〔ところで〕あなた方がしようとしているのは、自由主義的な分離、さらに言うなら極度に自由主義的な分離であります。……あなた方はこれをずっと維持するということが本当に可能だと確信してらっしゃいますか。……司祭は国家の手を逃れてしまうでしょう。市民としての義務をすっかり免れてしまうでしょう。

そのような次第でブノワは、極度に自由主義的な分離よりも、コンコルダ体制を維持することで、国家が教会へ規制を加える権利を残す方が望ましいと考えた。
 ‐自由主義的分離に対する批判のもうひとつの例は、社会主義の反教権主義者モーリス・アラー(Maurice Allard)による4月10日の演説である。彼は教会を徹底的に叩き潰すことを望んでいる。

「分離」というこの言葉は、大変貴重なものですけど、正確ではっきりとした考えをその言葉に与えませんと、何の意味もありません。教会が完全にうまく適合することのできる分離というのもあるわけですけれども、私たち自由思想家が望む分離というのは、教会と宗教が及ぼす害悪を減少させるような分離であります。……政治的に、社会的に危険な教会は、あらゆる手立てでもって打ち負かされなければならないのです。

もっともアラーの反強権主義的対案は、494対68という圧倒的多数で退けられている。
 こうして、自由主義的な分離の方向が確定した。つまり、公共の秩序を妨げない限りにおいて、宗教の自由は完全なものだとされたわけである。
 ‐もうひとつ、重要な演説は、4月21日、ジョレスによってなされたものである。良心の自由を謳った人権宣言を誇りとするフランス流の普遍主義にとって、信教の自由を個人レベルで認めるということはさほど困難なことではない。けれども、集団的な礼拝については、その自由が必ずしも自明のものとは言えない。私的領域のものとされても、社会的な射程を有するものに対しては、一種の警戒感がはたらいてくる。1905年法の第4条は、信徒会の結成にかかわるもので、ジョレスの発言はこの種の自由の承認をうながすものである。ジョレスは言う。

聖職者の自由、そしてまたカトリック俗信徒が信徒会に入り、それを中心として集まる信者の自由。発展の可能性に満ちたこの自由を妨げたり、それに制限を加えたりする権利は誰にもありません……。教会の組織原理を尊重すること。これは市民の一般的自由の要素のひとつにすぎなくなっています……。

 このように1905年法は、個人レベルでの信教の自由だけでなく、集団レベルでの自由をも認めるものとなっている。7月3日に国民議会にて可決、12月6日に上院を通過し、12月9日法として発布された。
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 今回の記事の行論にとりわけ関連の深い第1条、第2条、第4条の部分を引用しておこう。
 第1条 共和国は良心の自由を保障する。また、公的秩序のために以下に示す制限のもと、礼拝(culte)の自由な行使を保護する。
 第2条 共和国はいかなる宗教(culte)も公認せず、俸給も支払わず、補助金の交付も行わない。……
 第4条 本法発布後一年以内に、……宗教施設の……動産ならびに不動産は……結社に譲渡される。礼拝の一般的組織の規則にのっとりつつ、その存在が保障されることを望んでいるこの結社は、法的に形成されるものである。……
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 いくつかこぼれ話を記して話を結ぼう。
 ‐法案報告者、アリスティッド・ブリアンは、一時期は反教権主義の雑誌『ランテルヌ』にかかわったりしていたが、分離法を反教権主義の道具にしてはならないと考えていて、国民議会での審議中も、強硬な反教権主義者をなんとかなだめようとしている。ノルマリアンのジョレスは、田舎のカフェの息子として育ったブリアンの「百科全書的無知」をからかっていたそうだが、ブリアンはブリアンでそうした評判を政治家としてうまく利用していた節があって、「あいつは優等生と違ってしっかり準備してこないが、その場でなかなかうまいことを言ってのける」という風にして売っていたところがあるようだ。実はジョレスも一度ブリアンの機転に助けられている。というのは、ジョレスの娘が初聖体に参加しているところを取り上げられ、ジョレスが反教権主義者から非難の矢面に立たされたときのこと。ジョレスは「いや、それは私が参加させたわけではなくて、実はうちの家内が……」としどろもどろのところを、反教権主義者が「そんなこと女房が言い出したら、俺なら絞め殺したところだね」と畳みかける。そこへブリアンが一言「そいつはいい。ってことは、奥さんの葬式にも宗教は要らないわけだからね」( « Parfait, au moins vous auriez pu ainsi l’enterrer civilement »)。一同笑いに包まれ、ジョレスは危機を脱したとのこと。
 ‐1905年法がライシテについての最も重要な法律だということは誰もが認めるところだが、実は条文中に一度もlaïcitéという言葉は出てこない。ライシテの定義が難しいこと、ライシテについての議論が果てしないことの一因もおそらくここにあるだろう。ライシテという言葉の内実について、法的(juridique)にしっかりと確定した定義は、存在していないのである(確かにフランスがlaïqueな国であることは、1946年憲法と1958年憲法で規定されているが、そこでの「ライック」ということの内実が具体的に定義されているわけではない)。
 ‐ちなみに1905年法にはreligionという言葉も出てこない。宗教に当たる言葉はculteである。これは「宗教」概念の「礼拝」への還元とも読むことができるだろう。宗教概念の歴史的変遷に関心のある私としては、政治的に作られ流通させられた宗教概念として興味深い。(き)
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今回の記事を書くのに参考にしたのは、以下のものです。
fenestraeさん、猫屋さんから教えていただいた2005年12月2日のル・モンドの記事。
同日夜に放映された教育連盟作成の1905年法についての番組。
この番組についてのコメントともなっている、ジャン・ボベロー氏のブログの記事Onzième Impensé(Dixième Impenséも参照)。
http://jeanbauberotlaicite.blogspirit.com/archive/2005/11/30/onzieme-impense-la-separation-comme-pacte-laique.html
http://jeanbauberotlaicite.blogspirit.com/archive/2005/11/23/le-dixieme-impense-le-role-d-aristide-briand.html
Yves Bruley (textes choisis et présentés par), 1905 La séparation des Églises et de l’État, Perrin, 2004.
 それから国民議会での発言の引用は、厳密な訳というよりは、意訳に近いので悪しからず。引用したのは全部Yves Bruley編の本に載っていますので、興味のある方は参照してください。

*1:Jean Baubérot, Emile Combe et princesse carmélite : Improbable amour, L’aube, 2005.