勇気と幸福(アラン)

 フランスの正月が日本の正月のようにのんびりした感じでないというのもあるし、「ふ」がレポート・モードで頑張っているのを横目で見ながら年越ししたということもあるのか、今年はとりわけ新年を迎えたという感慨が薄い。昨日こちらと似たような境遇のリール在住の日本人夫妻と会う機会があって、そのときに奥さんの方から「今年の目標は何ですか」と尋ねられてはじめて、そういや立ててなかったなと気づかされた。旦那さんの方は「ときおり周りを見ずに突っ走る傾向があるって言われるもんで、今年は慎重に」などとおどけていらしたが、それなら逆に、どちらかというと最悪を考えて慎重に行動しがちな最近の私は「当たって砕けろ」を目標にしてもいいかななどと考えた。
 改まって考えてみても具体的にこれという目標はなかなか立てにくいのだが、気持ちを新たに立て直そうとしてみて出てくるのは、やっぱりまっとうに幸せでありたいなということだろうか。それには実は「勇気」がいるのだというアランの文章があって、以前手すさびに訳したことがあるからここに再録しよう。「当たって砕けろ」とは言ってないけれども、最悪を考えて行動してもいいことは何もないということを思い起こさせてくれる。フランスで生活していると、日本人的な期待の感覚だとそれが裏切られる感じがすることもしばしばあるので、ついつい物事を悪い方に取ってしまうこともあるのだが、それに対する一種の解毒剤ともなっている。『ミネルヴァあるいは智慧』という本の第47章「勇気と幸福」と題されたプロポ。新年に当たって、そうだよな、と気持ちを改めるのによい。

 どんな幸福も悪く受け止めればそれで台無しになりかねない。それで、本であれ芝居であれ遠出であれ、それについてよくない印象を最初から持っていると楽しむのは難しくなる。倦怠とは一種の判断の先取りであり、あらゆる楽しみごとをフイにしてしまう。喜びというものは、それを味わおうとしなければまず味わえないものだということを心に留めておこう。食べる喜びのように精神とのかかわりが少ないことにおいてさえ、喜んで迎える注意が必要である。ましてや精神の喜びが問題となれば当然それを勝ち取ろうとしなくてはならなくて、待っていたのではおそらく何にもならない。誰もチェスをするのにわざわざ「さあ、楽しむぞ」とは言うまい。けれど、意志が保たれ、はたらき、鍛えられてこそ、人は楽しみを味わうのである。カード・ゲームで遊ぶことさえ、それで楽しもうという意志が前提となっているのである。したがってこう言えるのではないだろうか、この世にあるものは何ひとつとしてそれじしんで喜ばせてくれるものはない、と。幾何学やデッサンや音楽が楽しくなるにはずいぶんと骨を折らなければならない。こうした苦しみと喜びの関係は激しいスポーツ競技にはっきりと見てとることができる。ランナーやレスラーやボクサーがわざと苦しんでそこに喜びを見出しているのは、言われてみれば奇妙なことかもしれない。けれど、これは疑いなき真実である。こうした人間のパラドクスについてよく考えるなら、幸せな人間というのは、その人のもとに幸福が勝手にやって来るような人間などと想定されることはないだろう。それとは逆に、自分の足で立って行動し勝ち取ってゆく人、力をはたらかせて幸福を作り出してゆく人が思い描かれることだろう。この意味において、幸福を相手にしている人は喜びごと(le plaisir)を軽んじても間違ってはいないわけである。喜びごとというのは、実際、精神によって高められていないと、飽き飽きさせたり不快にさせたりもするからだ。このような喜びごと(le plaisir)に対して、例えばおいしい食事というのは友達といる嬉しさ(les joies)によっていっそう引き立つ。この例からもっと大事ないろいろなことがわかるだろうが、万人向けの解説には適していない。結論として、喜びごとには大いに幸福が必要だと言っておこう。
 これに対して幸福はことさら喜びごとを必要としない。というのも幸福はどんな物事からでも喜びごとを作り出し、構成するからである。誰でも、収集家というものを見たことがあるだろうが、そこから今言ったことについて有益なことを学ぶことができる。収集家というのは、まさに自分の判断を作り上げ、意識的にそれを導いていくそのことによって、新たな価値を作り出し、そしてこう言ってよければ幸福の新たな源泉を見出していくのである。そしてこの例からわかるように、喜べることがあればなあと漠然と思う(désirer)のではなく、喜びを味わいたいんだと意志する(vouloir)勇気があれば、世界は、そして私たちの身近なところというのは、私たちにきっと幸福をもたらしてくれるような物事で満ち溢れているのだ。
 私が教わった、オプティミスムとは何か、ペシミスムとは何かという話は、説明の仕方がよくなかったと思う。あたかも砂糖とシナモンの重さをそれぞれ量るように、よいことと悪いことを数えていきましょうと言わんばかりだったのだ。私たちの時代の特徴のひとつは――私がよく理解していればだが――この種の計算で物事をとらえてしまうことだ。そういうふうにできてはいないということを知るには、次のようなことに気づけば十分である。すなわち、どんなに奢侈逸楽を極めた食事も最も些細なよくないことで揺らいでしまうこと、どんなにいいことも倦怠を前にしてはすべてが台無しになりかねないこと、そして、ちょっと先に不幸が待ち受けているかもしれないと単に可能性として思い描くだけでも、それを乗り越えなければひどく頭を悩ませるということ。列車が怖いと思ったり、どこもかしこも黴菌だらけだと見えてしまったりすることから私たちを癒してくれるような算術も理性も存在しないのである。こうして、精神というものは動きにまかせて放ったらかしにしておくと不幸を作り上げていってしまう。悪く考えてしまったり、悪く予見してしまうことには薬がないということは、欝の人が言ったり書いたりしている通りで、ペシミスムというのは財産の有無などにはかかわりなく勝手にそうなってしまうという意味で真実である。このように考えてみれば、これは気付けの苦薬のようなもので、問題は一変してしまう。大切なのは、恐れや不安を乗り越えること、動いている列車のなかであっても、あるいは崩れ落ちてしまうこともひょっとするとあるかもしれない家のなかであっても、平静で幸福であろうとすることである。大切なのは、自分じしんの考えから、とりわけ最悪のなかで最悪のことを考えてしまうペシミスムじたいから、自分の身を守ることである。デカルトが薦めていたのは悲しい思考を退けることだった。というのも、彼の言うところでは、そう考えては体に悪いし何事にも成功できなくなるからだ。この偉大な着想は、実はまだその大きさが測られていない。というのも、一種の文学的偏見というやつのせいで悲しみが評価されすぎているからだ。とにもかくにも、平静であろう、陽気であろうと自分に言い聞かせておくことだ。この手の知恵は、実は多くの人びとが実践している。そういう人たちはほとんど熟考ということをしないのだが、それは生活の必要からそういうことになっているわけである。難しいのは、モンテーニュが言っている通り、まさに知恵によって悲しくなったりしないことだ。そしてこの主題についての原則は、19世紀的な偏見を、決して持ったりしないことだ。19世紀というのは、人間が自分じしんの考えをどうすることもできなくなってしまった悲しい世紀なのだ。これとは逆に、安心したいのなら、試してみるほかはない。そしてもっとしっかりした教えによる保障がほしいなら、デカルトがエリザベス王女に送った有名な手紙を読むにしくはない。そこではどのように人間が自分じしんの意志と自分じしんの思考から救いを引き出すかが説かれている。私がこの小さな紙幅でつつましやかながら言おうと努めたのは、誰だって勇気の支えがなければ幸福もありえないということである。

 以前訳したもので紙幅を稼がせてもらいましたが、とりあえずこれで新年最初のエントリー。実は今日これから日本からの来客があるのです。それも「ふ」のお母さま。先ほどシャルル・ド・ゴールに着いたと連絡がありました。家内の実家でも最近「夫婦ブログ」なるものをはじめているようです。興味のある方はアンテナの「しょっちゅう玉玉」よりお出かけください。(き)