モンテヴェルディ、聞かずに語る 2

モンテヴェルディという作曲家は、ルネサンス音楽からバロック音楽への転換点に位置すると言われる。フィリップ・ボッサンの著作『モンテヴェルディオルフェオの歌』では、モンテヴェルディが1607年に発表した初のオペラ「オルフェオ」がまさにそのルネサンスバロックの蝶番、交差点の役割を果たすもので、いかにこのオペラが後の世に大きな影響を与えた歴史的スペクタクルだったかが、シンプルかつドラマティックに、シーンを追って語られる。授業で重点が置かれていたのは芸術における「感情の表現」だったが、16世紀の間、最初は音楽家にとっては「言葉、詞に忠実に」音楽を付けることが目的で、そのうちに音楽自体の持つ表現力の方へ関心が移っていく様子が興味深かった。バロック音楽においては、より複雑な感情を表現するために不協和音が取り入れられ、演奏の技法も多様化し(トレモロやピチカートを発明したのはモンテヴェルディ)、制約の多いポリフォニーから単旋律と伴奏(通奏低音)によって演奏されるモノディ様式へと移り変わるのが特徴とされる。
時代背景をもう少し詳しく説明すると、ルネサンス文芸復興の流れから、フランスの宮廷、あるいはイタリアの新興貴族たちの間で、「詞と音楽の調和」が数々の流れで試みられるのが16世紀後半のことで、例えばイタリアのフィレンツェではユマニストのバルディ伯爵が組織したグループ「カメラータ」が、古代ギリシア時代、ギリシア悲劇においておそらく達成されていた、詞と音楽の調和の復興を試みる動きがあったり(カメラータの理論面での中心人物が、ガリレオ・ガリレイの父ヴィンセント・ガリレイであるのが面白い)、フランドルでは詩人のジャン=アントワーヌ・バイフが「詞と音楽のアカデミー」なるものを組織し、ヨーロッパの音楽家達を集めて、音楽でいかに詞の感情を表現できるか競わせるコンサートを企画したりしている。
モンテヴェルディルネサンス音楽の特徴であるポリフォニー様式を十分に咀嚼しながらも、これらの新しい動きのどれもに影響を受け、かつ理論に流されすぎず本質的なところを貫いた唯一の天性の音楽職人だったと言える。モンテヴェルディ自体は、前半生はマントヴァのゴンザーガ伯爵のお抱え音楽家として、そして後半生はヴェニスのサンマルコ寺院の司祭として、常に時代の要求に適った音楽を書き続けていたが、モンテヴェルディの音楽、音楽を通しての真理の探究は常に、既存の形式を打ち破るところまで到達する。同時代の音楽家たちが理想を古代ギリシアに求めて、復興・再現ということに終始する中、モンテヴェルディだけは音楽における感情表現の新しい形式を発明するに至る。そしてそのことが伝統主義者、保守派から非難されたりもするが、民衆はいつもモンテヴェルディの新しい音楽を支持するのだ。
ところでジュヌヴィエーヴ・ロディ=ルイスの小論は結局次のように終わっている。デカルトモンテヴェルディの出会いは?−確かなことはわからないが、ヴェニスで1624年にモンテヴェルディの『タンクレディとクロリアンドの戦い』が初演されたとき、デカルトはイタリアにいたのだ―聴衆のうちにいなかったとしても、サンマルコ寺院のミサには参加しただろう、と。デカルトは結局のところ、音楽と感情との間に厳密な科学的相関関係を築くことを諦め、インスピレーションや天才の直観を優位に置いた、この点でデカルトにもモンテヴェルディにも当てはまる確かなことは、『真の天才は誰にも教わらない、彼は絶え間なき真の実践者だ。』ということだろう、と。やや拍子抜けの結論であるが、この評論が描き出しているのは結局、様々な反論異論、論敵に出会いながらも、天才の直観を持ち、ユマニスト的な透徹さで真理の探究を貫いていたのはデカルトであり、モンテヴェルディであったということらしい。

と、デカルトモンテヴェルディの関連がやや期待よりあいまいだったので、私のレポートはモンテヴェルディの歩みに終始してしまった。というより、天才という言葉が出てくるところにデカルト主義者の古さを感じてしまうドゥルージアンな私としては、むしろ内的な「真の反復は差異を生む」モンテヴェルディの地味な真摯な一生に関心が移ったという感じだった。新しいものが生まれる土壌というのは、実はとっても地に足のついたものだと思います、―というのはデカルトの「実践者」と同じこと??あれ。実は根っこはあまり変わらないような気もしますが。(あれ?まとまらないなー。すいません。遅くなりました。ふ)