記事クリップ――ベネディクト16世の教皇勅書

 ベネディクト16世が1月25日、教皇になってから初めての教皇勅書「デウス・カリタス・エスト」(神は愛なり)を発した。ラツィンガー枢機卿時代はハーバーマスと対談したこともあるなど知的で哲学的なことで知られる教皇だが、ある意味で彼らしく「愛」という極めて思索的なテーマを選んだ格好だ。
 同時代の社会に向けたパフォーマンスという趣もあった前教皇ヨハネパウロ2世の立場に比べると、ベネディクト16世の立場は古風にも見える。しかし、愛の問題は極めて現代的な問題なのだと現教皇は言う。
 「愛」(amour)は今日最も「けがされている」もののひとつである。「今日、私たちが身体を称えるやり方は欺瞞的なものだ。エロスは単なる性に低められ、単に売り買いできるもの、ひとつの商品になっている。いや、人間自体が商品となっているのである」。ところで本来、「エロスは私たちを恍惚のうちに神的なものの方に高めてゆくはずのものである」。
 かつてニーチェは、『善悪の彼岸』において、キリスト教はエロスを締めつけたと述べたが、ベネディクト16世によれば、キリスト教はエロスや肉体的愛の敵ではないのだという。そして教皇は、ギリシャ的なエロスと、ユダヤキリスト教的なアガペーは、連続的なものなのだと主張する。
 それから教皇は、「愛徳・慈愛」(charité)という言葉の重要性も強調している。これまた現代社会において「けがされている」言葉のひとつだと彼は認識している。かつてマルクスは、教会の唱える「愛徳」は社会の正義とは別物だと看破し、これを批判したのだが、教皇はこの議論を退けている。ニーチェマルクスという、近代における反キリスト教の代表的な二論客を批判しながら、キリスト教的な愛のあり方を擁護している格好だ。
 教皇は「愛徳」の概念を「正義」に近づけ、これらが今日の政治行動に欠かせないものだという。愛徳の精神に根ざした教会の活動や人道的な支援活動を積極的に奨励する一方で、政治的措置が正義とともにあるよう求めている。「教会にとって、愛徳は、他の所に任せておけるような一種の社会福祉ではない。愛徳は教会の本質そのものに属しているのである。愛徳は教会の本質そのものの表現であって、それを諦めることはできないのだ」。

 今回の記事は、「記事クリップ」的なもので、この件にかんするニュースをル・モンドで読んだので、その内容をざっと日本語で紹介しようと思ったものです。http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3214,36-734240@51-691953,0.html
 教皇勅書のフランス語全文は以下で読むことができますが、私は現段階ではきちんと読んではいません。http://medias.lemonde.fr/mmpub/edt/doc/20060125/734470_lettre_encyclique.pdf
 ル・モンドの記事を書いているアンリ・タンクによれば、ベネディクト16世のこの教皇勅書は、かつてパウロ6世やヨハネパウロ2世が発した文書とは似ていないとのことです。もっとも「現教皇がこれまでの教皇たちと断絶しているのではなくて、これまでの教皇が述べたことが知られていると見なしているのだ。教皇は革命めいたことを起こそうとは全くしていないけれども、語彙はもはや同じではない。彼は、断固として哲学的かつ霊的な調子で、原理の高みと深みにおいてあるのだ」。
 このあたりのことは、どうなのか……。個人的には、教皇庁関係のことやカトリック関係のことなど正直あまり詳しくないのですが、ちょっとずつ勉強していかないとな、などと思っているところです。(き)