漱石『行人』

 ここのところ生活が比較的宵っ張りで、なかなか寝つけないのをいいことに、漱石の『行人』を読み返した。
 今から7、8年ほど前の話になるが、明治後期・大正期の知識人の宗教観に関心を抱くところから、そもそも私の研究生活らしきものははじまったので、漱石の後期の作品となると、自然そういう方向に注意が行った。
 例えば『門』で一番印象的なシーンといって思い浮かぶのは、宗助が宗教に入りたくても入れず、門の前で逡巡するところ。もちろん一字一句正確に覚えているわけではないけれども、端折ってそらで引用するなら確かこんな感じの文章。 

彼は平生より分別を頼りに生きてきた。それが今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そして取捨も商量も容れぬ善男善女の一途一徹を羨んだ。自分は門をくぐる人ではなかった。だが、門をくぐらずにすむ人でもなかった。ただ門の前に佇んで日の暮れるのを待つ、悲しい人だった。」

 そんな『門』の宗助と、『行人』の一郎はかなり二重写しになっている。例えば弟の二郎から、自分には宗教のことはよくわからないけれども兄さんはよく考える性質だから、ということを言われて、次のように答える場面。

「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」
兄はさも忌々しそうにこう云放った。そうして置いて、「ああ己はどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうか己を信じられる様にして呉れ」

 あるいは、Hさんと伊豆のあたりを旅しているときに彼に言った次のような言葉。

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない……然し宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未然に食い留められそうだ。なればまあ気違だな。然し未来の僕はさて置いて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もう既にどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くて堪まらない」

 今回読み返しても、もちろんこういうところは面白いと思って、自然とこちらの興味に引っかかってくるのだけれども、さすがに昔よりもいくらか立体的に眺められるようにはなってきたかもしれない。
 今回とりわけその重要性に気づいたのは、当時の高等教育を受けた男性の言説や語彙と、生活に近いところで主に女性によって発せられていた言葉との乖離、という舞台装置である。ジッドの『女の学校』なんかにも、フランス第三共和政期のブルジョワ家庭の文化的性差がはっきりと描かれているけど、このような空隙が一郎と嫂とのあいだにあるのだなと思わされた。『行人』のなかには、一郎と嫂の夫婦関係のほかにも、岡田とお兼さんの大阪での暮らし、佐野とお貞さんの結婚話が織り交ぜられ、また友人の三沢、妹のお重、そして二郎自身の周りにも結婚のプレッシャーが漂うが、結婚が幸福そうなものとしてはまるで描かれていない。一郎の煩悶もそれなりの同情を誘うものではあるけれども、嫂が「私、女だからあんまり難しいことはわからないけど」と言うときの寂しさ!
 慣習の型を完全に破るほどの強力な個性は誰も持ち合わせていないが、そうした型が不自然であることに気づく程度には誰しも鈍感ではなく、そういう設定のなかでドラマが進んでいくところにこの小説の魅力がある。嫂と二郎のあいだにも、いわゆるセンセーショナルなことは最終的には起こらないのだが、普段は嫂なら嫂、義弟なら義弟という型にそれぞれ収まって、それ以上のことは意識されないのに、そうした枠が取り払われると急に嫂の艶かしさが増してくるといった効果がある。
 それにしても、主人公二郎に投影されている漱石の視点というか態度がとてもいい。普通に漱石を読んで惹きつけられるとすれば、やはりこういう点なのだろうと今さらにして思う。つまり、これまでは、明治後期・大正期における知識人の宗教観云々の観念が邪魔していたのである。今回あまりそうしたことに気を奪われず読んでいたら、後景に退いていたものが自然に前景化してきてくれた。割と覚めていて、自分なり世界なりを突き放して眺めているのに、相手や事件にきちんと巻き込まれている倫理性。恐れ入ったり、釣り込まれたり、迂闊なことを言ってしまったり、思わずどぎまぎしたり。それが「であった」調とでもいうのか、淡々としていながら大きな余韻の効果を残す文体で綴られていく。
 そして次が早く読みたくなるようなうまさがある。これには、新聞に連載されていたという事情も大いに一役買っていただろうが、とくに二郎が嫂と和歌山に出かけるくだりは、大雨で帰るのを諦めなければならなくなるところといい、停電になるところといい、暗いあいだに嫂が軽く化粧をして艶が増すところといい、読み出したら、事の顛末を見守るまでは途中で本を置くことができない。父親が客を前にして話す男と女の物語も、一息に読んでしまう(生真面目な一郎は父親の軽薄なところを少し苦々しく思っているのだが、この父親はなかなかの人物として描かれているように思う)。
 次作の『こころ』にはKと先生の自殺があるのだが、この『行人』にはそうした破局に至りかねない伏線がいろいろと張られながらも、決定的な破局自体はない。

あなた方は兄さんの将来に就いて、とくに明瞭な知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、予言者でない私は、未来にくちばしを挟む資格を持っておりません。雲が空に薄暗く被さった時、雨になる事もありますし、又雨にならずに済む事もあります。……私はこうして一所にいる間、出来るだけ兄さんの為にこの雲を払おうとしています。

 物語は、このようなHさんからの手紙で終わっている。人によっては、『こころ』の突きつけてくる衝撃的な重さに比べて、この終局に物足りなさを覚えるのかもしれないが、私にはかえってそうした破局が不在だからこそ、読者は一通り読み終えたあとも希望を捨てずに『行人』の世界に再び入って行くことができるのだと思われる。(き)

行人 (岩波文庫)

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