幸田文と奉仕精神

 幸田文の読まれ方には様々あると思うが、今回私は「仕える人」の視点やあり方に関心があって、彼女の作品を追っていたように思う。偉大なる学者小説家である幸田露伴を父に持ち、その父から「お前は学問には向かない」と早くからレッテルを押され、10代の半ばから家事一般を父自らに厳しく仕込まれるという、独特な環境で育った彼女は、40代のときに離婚して子連れで父のもとに戻り、その後数年を再び父に仕えて過ごした。父露伴との愛憎もつれるやりとりの中で、時には反抗しつつ、憤懣をためつつ、彼女なりの「奉仕哲学」を磨き上げていったのではないかという気がしている。
 実際、「父・こんなこと」や「おとうと」を読めばわかるのだが、彼女はその本質から「奉仕」に向いているとは思いがたい部分もあり、おそらくそれは本人も強く感じていたことで、晩年の露伴が文子にあたる物言いなどからは、父親と娘という関係から来る甘えのようなものを超えた、本心からウンザリした様子が見え隠れする箇所もある。ここは、どうしても文子の中に父親に愛されたいという執念に近い思いがあったからこそ、乗り越えられたに壁に違いない、と思う部分が多い。「父」の最期、露伴の亡くなる場面では、「おとうさん」の魂にしがみつき、かじりついて、自分が、他でもない文子が最期まで見届けた、やり遂げた、という達成感すら感じる。「愛子文子と言える」という言葉には、涙を振り払いながらもしゃんと立っている娘・幸田文の姿が浮かぶ。
彼女はその後いくつかの長編小説を試みているが、「流れる」の主人公梨香も芸者置屋に勤める未亡人の女中だし、「闘」では結核病棟の中での患者と医者・看護婦の、奉仕される側・する側の双方に視点が移される。幸田文自身の視点が色濃く投影されているのはいつもこの「奉仕する側、仕える側」の人物であり、たいてい彼女達の奉仕は控え目でありながら筋の一本通った賞讃されるべきものであるのだが、露伴の生前にほとんど褒められたことのなかったと言う幸田文は、それでも実際どうすれば理想的な奉仕となるのか、比較して自分はどの辺りが至らないのかということを、いつも考えていて、これらの人物に理想を投影したに違いないと思う。もちろんそこには女性的な自己肯定の姿もあり、本当はこれで露伴に褒められたかったのだなと思われる点も、自分の判断の正しさを決して譲らない強さも見える。人間としては意地が強すぎる、という感じもしなくはないくらい。
 「できがわるい」という思いが最初にあるからこそ、気を回しすぎ、頑張りすぎる。それで余計に先回りをし、しなくてもいい心配をし、肝心のところを見落として目玉をくらう。しかし自分の思いは間違っていないという確信もあるから、胸の内に溜まるものは日に日に増える。自分で解っていないと気がすまず、理解したがる、というのは実は女中には不要な部分で、勝手に見通して、解釈が加わる人物が輪の中にひとり入るだけで、状況は変わってしまうものなのだ。その「驕り」は時に致命的なものとなる。これはまさに働いていた間の私にぴったり当てはまる部分で、身につまされながら読んでいたのだが、幸田文の頑張りすぎを見るにつけても、奉仕される側は、もっと肩に力の入らないさらっとしてかつつぼを押さえたもの、そして優しさを求めているのだなというのがよくわかる。実は仕事が上手くなること以上にコミュニケーションが上手くなることが、奉仕する人の極意なのかも知れないと思う。さて晩年の幸田文は、しゃんとしていて、さらっとしていて、気がつく人と思われていたのだろうか。やっぱりコミュニケーション上では、どちらかというと不器用な人だったという気がしてならない。(ふ)