マホメット・カリカチュア事件

 ここのところ、日本も含め、世界のメディアを賑わしている「預言者風刺漫画問題」だが、この進行中の事件を自分なりに、暫定的に、整理してみたい。思い立った理由は、この事件が「フランスのライシテ」や「宗教と民主主義」という私が関心を抱いている問題系に引っかかってくるからである。
 第一義的には、事件の進行の様子を押えられればよいと思うのだが、第二義的には、この事件に見られるような価値観の衝突(あるいはすれ違い)を解読するにはどのような視点が有効なのかを考えていきたい、という思いもある。そのための有力な手がかりが現在の私にあるわけではないけれども、一種の「非対称性」とでも言うべきものに対して何か引っかかるものを感じている。
 今回まとめるに当たって特に参照したのは、Le mondeTV5-Infoのネット上で読める記事である*1デンマーク在住フランス在住の日本人のブログも拝見させていただいた。あとは、テレビのニュースや、日本の新聞のホーム・ページなどをさっと眺めた。問題とされるカリカチュアは3点だけ見つけた。日本の新聞の記事だけではなかなか伝わらないところを拾うようにしてまとめていきたい。

□事件の経緯
 昨年9月30日、デンマーク保守系新聞ユランズ・ポステンが、マホメットを風刺する絵12点を紙面に掲載した。特にショッキングと言われるのは、預言者が被っているターバンが爆弾型をしていて、その先に火がついているというものだ。今回の事件の発端だが、二つの大きな疑問が浮かんでくる。ひとつは、目下進行しているような大事件に発展するまで、どうして4ヶ月もの時間を要しているのか、ということ。もうひとつは、どうしてそもそも、ユランズ・ポステンは問題含みの風刺画を掲載したのか、その意図は何だったのか、ということである。
 二番目の疑問の方から、ひとつの迂回路を辿りながら見てみよう。
 2005年夏、『コーラン預言者マホメットの生涯』という本を準備していた著者カーレ・ブリュイトゲンKaare Bluitgenは、ある悩み事を抱えていた。本のなかの挿絵を描いてくれるイラストレーターを探していたのだが、誰も引き受けてくれる人がいないのである。著者によれば、イスラーム社会での女性に対する暴力を告発的に描いた短編映画を製作したテオ・ファン・ゴッホ(あの画家のゴッホの甥の孫に当たる)が、2004年に暗殺されたことが大きいのだという。それ以降、作家やイラストレーターのなかにも、イスラームにかんすることには一切触れたがらないという傾向が出てきたのだとのこと 。*2
 ユランズ・ポステン紙も、このような自主検閲の傾向を感じ取っていた。そしてそれを、デンマーク民主主義における表現の自由の危機だと受け止めた。ちなみにデンマークと言えば、表現の自由にかけてはヨーロッパのなかでも最も「進んだ」国のひとつであって、ヨーロッパで唯一、ネオナチのラジオ番組を流すことさえ認めている。ユランズ・ポステンが9月30日の掲載に踏み切ったのには、このような背景があるようだ。
 新聞発刊直後から、様々な形の抗議活動はあった。1月末までの4ヶ月の歩みとしては、以下のようになる。

  • 10月12日、ユランズ・ポステン紙の編集長が、殺害脅迫を受け取る。
  • 10月14日、コペンハーゲンで数千人規模のデモ。
  • 10月20日コペンハーゲン駐在のムスリム諸国の大使たちが、デンマーク首相ラムセンに対して抗議するが、ラムセン首相は彼らを迎えることを拒んだ。
  • 12月29日、カイロで行われたアラブ諸国外相会談で、問題が取り上げられ「これは宗教と預言者の聖性およびイスラームの崇高な価値に逆らうものである」と声明。
  • 1月5日、デンマーク首相とアラブ連盟事務局長ムッサが電話で会談、ひとつの合意が取りつけられた。デンマーク首相は、表現の自由を強調しつつ、宗教やエスニーの所属を理由にして特定団体を悪魔のように描こうとするあらゆる行為や議論を糾弾するという内容の文書に署名、その文書がアラブ諸国に回覧されることが約束された。
  • 1月10日、ノルウェーキリスト教雑誌マガジネットが、ユランズ・ポステンと連携を取りつつ、表現の自由の名の下にカリカチュアを掲載したものを発行。同誌編集長は、2日後に殺害脅迫を受け取った。
  • 1月21日、ウラマーイスラーム教国の法学者・神学者)たちの国際連盟が、信徒たちに向かって、デンマークおよびノルウェーの製品をボイコットするように呼びかける。
  • 1月26日、デンマークスウェーデン系の乳製品会社アルラ・フーズArla Foodsが、サウジ・アラビア、クウェートアラブ首長国連邦、ヨルダン、マグレブ諸国でボイコットの深刻な影響を被っていると発表。
  • 1月29日、ラムセン首相の声明。政府はメディアに対して圧力をかけたり情報統制をしたりはしない、そのような新聞が書いたことに対して、デンマークとして責任を取るというのは筋が違う、という趣旨。翌日、個人的には風刺画の発行は遺憾だと述べる。
  • 1月30日、ユランズ・ポステンは、多くのムスリムの感情を害してしまったことに対して「お詫び」を表明する。
  • 1月31日、マガジネットも同様の「お詫び」を表明。

 このように1月末までの事件の経過を辿ってみると、1月5日と10日のあいだにひとつの分岐点が見えてくるように思われるが、それにしても、マスメディアの影響力というのか、話題が共有され展開されていくときの速度と規模は目を瞠はるものがある。
 けれども、ここでは次の点に注目したい。それは、ユランズ・ポステンやマガジネットが「お詫び」を表明しているのは、基本的には、多くのムスリムの感情を害してしまったことに対してであって、カリカチュアを掲載したこと自体ではない、という点である(この先、状況がこれ以上悪化した場合には、状況沈静化のためにカリカチュアの掲載そのものについて「お詫び」をすることがないとも限らないが、それは状況から選択を余儀なくされるような性質のものであって、自発的に原則を変えることはまず考えられない)。
 事件は、「表現の自由」のラインと「信仰の尊重」のラインのせめぎあいとしてとらえられている。欧米諸国や欧米の諸メディアも、この二つのどちらに軍配を上げるか、あるいはどこで線引きをするか、という観点から自らの立場を明らかにするよう迫られている。各国政府の反応、各国メディアの反応は、それ自体興味深い 。*3

□各国政府・メディアの反応
 フランスでは、フランス・ソワール紙が2月1日、「そうとも、人には神をカリカチュアする権利がある」との見出しでユランズ・ポステンのカリカチュアを掲載*4リベラシオン紙も12のうち2つのカリカチュアを転載した(それでも一番ショッキングとされる爆弾のターバンを巻いたマホメットの絵は避けている)。ヌーヴェル・オプセルヴァトゥールやシャーリー・エブドなどの週刊誌もカリカチュアを再録する予定で、「表現の自由」に援護射撃を送っている。一方、フィガロ紙やラ・トリビューヌ・ドゥ・ジュネーヴ紙などは、「表現の自由」の原則は貫きながらも、それには一定の限界があるとの論調だ。例えばフィガロには、「自主検閲は必要かもしれない、〔なぜなら〕法が許しても良心が禁ずることがあるのだから」と述べられている。
 フランス政府の立場は、検閲はしない(つまり各社の出版の自由を侵害しない)というものである。2月2日サルコジ内相は「検閲過剰(l’excès de censure)よりはカリカチュア過剰(l’excès de caricature)の方がいい」と韻を踏んで言っている(自分の暴露本のときは圧力かけて出版差し止めを喰らわせておいて何をか言わん!ではあるが)。トルコ滞在中のドゥスト=ブラジ外相も「表現の自由を問題に付すことはあり得ない」と述べ、「ただしこの自由は、寛容の精神、信仰や宗教を尊重する精神において行使されなければならない。これはわが国現行のライシテ原理の基盤そのものにある」と付け加えた。それでもフランス政府は、ムスリムたちの抗議の声が収まらないのを受けて、2月3日、表現の自由を守る言説には、宗教的感情に対する責任と尊重ということを盛り込んで、それをやわらげるよう呼びかけている。
 フランス国内のムスリム団体の反応はどうか。フランスイスラム教評議会(CFCM)の会長でパリ・モスク主管のダリル・ブバクールは、カリカチュアを「フランス国内に何百万というムスリムに対する挑発である」と受け止め「耐え難い」と述べている。同評議会には、訴訟に踏み切るかどうかを検討している構成団体もある。
 フランス国外に目を転じると、英米は政府・メディアとも、表現の自由はそれが誰かを傷つけるようなものであってはならない、という論調だ。
 アメリカの名だたる新聞社はすべて、カリカチュア自体の再録は避けた。デトロイト・フリー・プレスの国際面担当責任者ピーター・ガヴリロヴィッチは「私たちは写真とカリカチュアには細心の注意を払っている」と言い、「いかなる宗教に対しても、攻撃的なカリカチュアは載せないだろう」と述べている。ただし、新聞社はこぞって今回の問題を取り上げ、議論に対して開こうとしている。また、ロサンジェルスタイムスは、他社がカリカチュアを転載する権利については擁護している。
 イギリスの外務大臣ジャック・ストローは「カリカチュアを新たに転載する必要はなかったと思う。デリカシーがなく、尊敬の態度に欠けている」と言い、転載した新聞は「間違っていた」と述べている。イギリス各紙も、表現の自由を尊重しつつも、それに条件をつけるケースが多いようだ。
 イギリスの反応が興味深いのは、過去のラシュディー事件*5、それから昨年7月のロンドン・テロ事件が、おそらくその反応に影響しているからだ。
 これに対して、2004年3月に首都マドリッドでテロがあったスペインの有力紙エル・ムンドは、正反対とも言えるような反応をしている。ヨーロッパの民主主義が、アラブ諸国の激怒に対して譲歩を見せているのを嘆く姿勢のようだ。
 ドイツのディ・ウェルト紙も、表現の自由を擁護する立場に立って、どうしてこのようなときに作家や知識人が結集しないのかと苛立っている模様だ。「西洋人の自己嫌悪が行き過ぎているから、基本的な権利が脅かされているのに、ほとんど誰も立ち上がろうとしない」。
 チェコオーストリア、ベルギーなどの有力紙も、表現の自由を守れという方に力点を置いた論調のようだ。

□一種の「非対称性」とでも言うべきもの
 「表現の自由」と「信仰の尊重」のどちらに力点を置くか。いわゆる欧米先進国から見ると、この事件は両者の優先順位の問題、あるいは両者のあいだの線引きの問題として現れる。これに対して、イスラーム世界の目には、この事件は「真理」に対する「冒涜」の問題としておそらく映っている。
 おそらく、と言ったのは、単純に私にはよくわかっていないからである。イスラーム世界のムスリムで、今回の問題が、欧米世界では「表現の自由」と「信仰の尊重」の優先順位や線引きの問題として現れている、ということを了解している者と、そうでない者との配分は、どのくらいになるのだろうか。私には想像でしかものが言えないのだが、指導エリート層は、欧米流のロジックを十分に了解しながら、もしくは欧米的な価値観をいったん何らかの形で消化した上で、イスラーム世界はそれとは違う路線で行く、と考えているものが大部分だと思う。それが民衆レベルになると、欧米では「表現の自由」か「信仰の尊重」かという形で問いが立つということを飲み込んだ上での反対なのか、それともそのような形で問いを立てること自体が不敬虔なこととして現れるのか。
 ユランズ・ポステンやマガジネットが、多くのムスリムの心情を害してしまったことは申し訳ない、と声明を出したことは、信仰の問題が個人の問題、内面の問題と受け止められている場においては謝罪と受け止められうるけれども、そうでない場では謝罪となりえるのだろうか。
 このようなことを考えると、今回の事件は、「表現の自由」と「信仰の尊重」のせめぎあいの問題ではあるけれども、そのような表面的な図式を越えて、今述べたような一種の「非対称性」とでも言うべきものをも含みこんで思考することはできないだろうか。
 誤解のないように付け加えておけば、私自身はイスラーム世界をダシにして欧米のロジックにケチをつけたいとか考えているわけではない。ただ自分が、「表現の自由」と「信仰の尊重」の線引きという磁場の方に、強く規定されていることを強く自覚しておきたいだけだ。そして、このような図式構成の形成自体に対しても自覚的・批判的な視点から眺められた方が、より望ましいのではないかと思っているだけだ。今回の事件に対する私の率直な反応は、カリカチュアをやられたのなら、カリカチュアでやり返せばいいのに、である。抗議はいいと思うが、暴力は認められない、である。
 かつてヴァレリーは、不寛容は純粋な時代の恐ろしい美徳だと述べたが、これはあまりにヨーロッパ的な発言にすぎるのだろうか、それともきちんと普遍性に参与しているのだろうか。(き)

*1:事件の経緯についてはL'affaire des caricatures de Mahometというタイトルの記事が、ヨーロッパ各紙の反応についてはPresse européenne : pour la liberté, mais ne pas envenimer la situationというタイトルの記事が極めてよくまとまっている。(というより、以下で私がまとめている一番のもとネタはこれら2つの記事と言っても過言ではありません。ちゃんとリンクを張ろうとしたのですが、プリント・アウトして読んでいるうちに、これらの記事自体に遡れなくなってしまいました。)

*2:ブリュイトゲンの本は、1月24日に無事10の挿絵がついて出版された(イラストレーターの名は匿名)。イスラーム教では預言者を偶像化するような図像は一切禁じているとのことだが、彼の本の内容自体はイスラームを批判するものではなく、出版以後、今までのところは、彼に対しても出版社に対しても、図像化に対する抗議や脅迫は寄せられていないという。この例から演繹するなら、ユランズ・ポステン紙のカリカチュア掲載に端を発する今回の事件は、図像化のレベルではなく、やはりカリカチュアが「冒涜」だと受け止められていると言えよう。

*3:EUは25か国間で人種差別問題についての法的制裁のあり方の足並みを揃えられないか、長い時間をかけて議論していたが、昨年6月、それは諦めなければならないとの結論に達している。その際にも、表現の自由をめぐる各国の法制上の伝統が異なっているということが意識されている。とりわけ、デンマークスウェーデンアイルランドが、望むことなら何を書いてもよいという立場に立っている。

*4:同日夕刻、フランス・ソワール紙の編集長ジャック・ルフランは、同紙を所有しているエジプト系フランス人のレイモン・ラカーによって更迭された。ただし、ラカーはエジプト系とは言っても、キリスト教徒である。リベラシオン紙の記事によれば、ルフランとラカーの間はもともと仲がよくなかったという。

*5:悪魔の詩』の著者サルマン・ラシュディーは今回のカリカチュア事件について意見を求められたがそれに対するコメントを控えたようだ。