Munichの日本版パンフ

昼食の洗い物を終えて、ほっと一息、お茶を飲みながらふと外を眺めたら雪が降っている。リールの雪はさらさらした粉のようなものが多いのに、今日はずいぶんと湿気を含んで、日本の雪みたいにばしゃばしゃ降っている。
先ほど日本から届いた荷物の中に、「Munich」の日本版パンフレットが入っていた。母親曰く、「ブログに見たって書いてあったけど、フランス語ようわからんところもあったやろと思って(何で北九州弁なん?)」読んでみて、確かに納得、あっそうだったのかと思うところも多々あったけれど、まあ話の大筋はきちんと理解できていたようで安心。それにしても、このパンフレットを見て感じたのは、この映画が持つリアリティの伝わり方の違い。日本のパンフレットを読む限りでは、主に伝わってくるのはスピルバーグ礼賛のニュアンス、あるいは娯楽サスペンス映画としてどのあたりが見どころかが中心で、見る側はついパンフを読みながら、スピルバーグの他の作品との出来栄えの比較に目が行ってしまうだろう。例えばパンフレットにもスピルバーグが70年代のサスペンス風仕立てにこだわったと書いてあったけれど、なぜスピルバーグが時代や街の雰囲気にこだわったのか、今この映画を撮る意味はなんなのか、その辺りがイマイチ伝わってこない。日本って平和なんだな、と改めて思うと同時に、受け取る方のリアリティが、この物語の舞台となっているヨーロッパでは自ずと変わってくるのかもしれないなと思う。暗殺の舞台となるそれぞれの街の風景も、どことして特別ではないのだ。例えばリールのその辺りのアパルトマンで起こった事件でもおかしくないといった様子。もちろんそこにはスピルバーグのサービス精神というかわかりやすさというか、例えばパリの市場のシーンではバックに大きくエッフェル塔が写っていたりとか、オランダなら運河が流れていたりとか、そういうことはあるけれど。
印象的だったのはスピルバーグの次の言葉。「どれだけ困難だったか想像できるだろう。パレスチナ人を演じるためアラブ人俳優を起用し、イスラエル人を演じるためにイスラエル人を起用する・・・そして彼らはそれをとても重く受け止めた。それはとてつもない感情的カタルシスで、技量云々を気にかける余裕はなかった。キャストやスタッフを含めた全員の均衡を保つだけで精一杯だったから。とても厳しい2週間だった。」そうだろうな。(ふ)