「見る」現象の謎@古代ギリシア

さて、2月末に提出するはずだったレポートが昨日ようやく終わった。例によってぎりぎりに取り掛かり、締め切りをおしてしまうという ;;相変わらずなパターンで、反省することしきり;。それにしても、プラトンの「ティマイオス」に手間取った! hfさんから日本語訳も借りることができたエピキュロス・ルクレティウスにまず取り掛かったら、そっちが面白くなってしまった上、ティマイオスのフランス語がどーしても頭に入らない! 夫が日本から戻ってきたときに、なんと学校の図書館でティマイオス全訳コピーしてきてくれたおかげで、やっと手がついたものの、この本におけるプラトンの自然観の大枠を理解するのにまた一苦労。プラトンは独特の深さがあって、レジュメしにくいのです。何はともあれ、終わったぞ! あー疲れた。ムッシュ・メットの前期セミナー、テーマは前にも少し取り上げた、光の研究史。で私の課題が、プラトンだったわけですが、プラトンに至るまでの流れ、そしてプラトンがどう消化したかが、ちょっと面白かった。てなわけで、以下お勉強レポートです。
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古代ギリシア・ローマの哲学者たちの間で、「見る」という現象の謎が巻き起こした一大論争がある。ものがなぜ見えるかということに関して、大きく対立する二つの解釈(実際には、もうちょっと複雑なのだが)が生じたのだ。簡単に言えば、像は物から目に届くのか、それとも目から物質に対して発せられるものがあるのか、という議論である。

1.原子論者から、エピクロスルクレティウス
一つめは、物質の最小単位としてアトムの存在を論じた、紀元前5〜4世紀のレウキッポス、デモクリトスらによる、「物質は絶え間なくその像(eidora)を四方八方に送り続けている」という説。目は、唯一この像のレセプターとしてある器官であり、物質から送られたその像は、物質を底辺、目を三角柱の頂点とする道筋をまっすぐに通って、瞳に届き、その姿を伝えるというもの。この説は後にエピクロスが採用し、シミュラークルという言葉を用いてそのメカニズムを解説している(「ヘロドトスへの手紙」参照)。このイメージを詩的な宇宙観で発展させたのが、ローマ時代のエピクロス主義者、ルクレティウス。虚空の中で運動するアトムは常に振動し、絶え間ない生成変化の連続を生み、物質がその像(eidora)を発する様子は、あたかも太陽が絶え間なく熱と光を送り出しているようなものだと書いている(「物の本質について(De la Nature)」)。
またこの説では、五感のレセプターとしての役割はすべて類似点のあるものとして描かれ、感覚の働きを受動的なものとしている。

2.ピタゴラスピタゴラス学派)、エンペドクレス、ユークリッドなど。
内なる火(feu intérieur)が目から発せられ、物に届くという説。例えば猫の目が夜に光るのは、この火の働きだとする。猫の目は人間の目よりもこの火の力が強いので、暗闇でも物が見えるとされる。この説は、アラブの大科学者アルハーゼンがその存在を否定するまで、長い間有力だった。数学者ユークリッドはこの目から出る光(あるいは視線と言った方がいいかもしれないが=rayon visuel)の行程を元に、光学の基礎となる理論を定立した。光が同じ速度でまっすぐに進むこと、鏡やレンズで屈折や反射が起こることなど、現在でも物理光学理論のベースとなっているものが多く、見るということの精神的な面での解釈が中心だった古代ギリシアにおいて、光の物理的な面でのメカニズムを探求した功績は大きい。この説では、目や精神の働きを能動的なものとみなしている。

3.プラトンによる折衷理論
プラトンはいくつかの著作で、人間における目の役割の重要性について述べているが、その宇宙観・自然観が最もよくあらわれているのが「ティマイオス」。宇宙・自然・身体・感覚などのメカニズムが登場人物のティマイオスによって語られる。全て生起する現象には理由があり、理由のあるものは理解することができる、また感覚できるものは、理解するべくして与えられている。ティマイオスによれば、「目は、星辰の動きを理解するために、神から与えられた器官」であり、星の光を感受するのも、物質を見ることができるのも、内なる火(feu intérieur)と外界の火(feu extérieur)が出会い、その直線状で一つの像を結ぶからだ、とする。つまり、目から発する火があるという当時有力だった説と、原子論者による物が像を発するという説が、ある意味で融合している。ティマイオスによれば、自然界の事象を構成するのは火・水・空気・土の4要素であり、火と呼ばれるもののうちにも、見える火と見えない火、身体を構成する要素としての火など様々な形態がある。色を知覚するのは、この外界の火と内なる火、そして内なる水が混ざった結果であり、例えば両方の火が同じくらいの大きさの粒子(?)ならば透明、外界の火の粒子が大きければ視線(rayon visuel)を集中させるので「黒」、小さければ視線を拡散させるので「白」、あるいは「まぶしい」という感覚は外の強い火と中の火が出会い、涙を生じさせる現象で、その混ざり合いの中であらゆる色が生じる。それより少し弱い種類の火が目の水分と混ざれば、「赤」の知覚が生じる。

この後、アリストテレスによる理論の展開があるのだが、今回はここまでで終わり。光そのものが研究対象となるよりは、精神世界の探求という面が強く、実験を踏まえた科学的な研究がなされるのは、10世紀アラブを経て、ケプラーガリレオらの登場する16世紀イタリアまで待たなければならない。実際、光が波動であるか粒子であるか、などの議論は20世紀まで持ち越されるし、また、色についての理論は、光が独立して物理的に分析されていくのに少し遅れて、心理学的な分析もゲーテなどによって行なわれ、独自の展開を見せることになる。とはいえ、科学がジャンル分けされる前の混沌とした古代ギリシアの議論の中に、あらゆる問題意識の萌芽があると言えるだろう。物質の面から見る世界と、精神の側から見る世界をどう結びつけるか、あるいはその二つは同じ物なのか別のものなのか、どう関わり、どのようなアナロジーが見えるのか、ということは、常に世界に対する問いかけの姿勢の根本にあるものだろう。答えがあるのかどうかはわからないが、どちらも掘り下げていく、プラトンの豊かさのおかげで、なんとなく内面世界が広がったような気になることはできた、と思う。(ふ)