辻邦生の文学における生と死
機会が与えられて、10月上旬にトゥールーズで死生学関連のちょっとした発表をすることになっている。話としては2月くらいからあったものなのだが、ちょうど今、原稿を書いている。TPOからして、フランス人相手にライシテの話を死と絡めてするというわけにはいかないようで、日本関係のほうがいいと言われ、何にしようか多少迷ったが、辻邦生でやってみようと思いますがいかがでしょうと言うと、割とすんなりOKをいただいた。
私が辻邦生を読み出したのは、99年に彼が死んでからになる。ちょうどその頃ちくま文庫で森有正のエッセー集が出ていて、そこにしばしば辻邦生の名前を見出した。私たちの世代で森有正を読む人間はずいぶん少なくなっていると思うけれども、フランス留学を考えていた当時の自分は、一世代前の人間であるかのように森有正を通して西欧文化の重みを疑似体験していた。それとその頃は吉田健一を集中的に読んでいた。いきなり『時間』から入ってしまい、最初はリズムがとらえられなかったのだが、そのうちに馴染むと、すっかりはまり込んでしまって、御多分に漏れず、本を読むというより贅沢な時間を過ごしているというふうになってきた。こうした経緯からいって、森有正と吉田健一を文学上の二人の師匠と仰ぐ辻邦生に手が伸びるのは、自然の流れだった。
『のちの思いに』か『二都物語』あたりが最初だっただろうか。そのときは、幸せな人生を送った人だったのだなと漠然と感じた程度のものだったと思うけれども、それから半年くらいして『西行花伝』を読んで、こんな素晴らしい作品を書く人だったのかと思い、そこからは暇を見つけて、『背教者ユリアヌス』、『安土往還記』、『廻廊にて』、『夏の砦』などを読んでいった。日本では今、新潮社から全集が出ているので、まとまったお金があれば揃えたいところなのだが、フランスには文庫になっているものを持ち込んでいる。手元にあるものなら、それぞれ3度くらいは読んできた。
それで、辻邦生の文学では様々な形で生と死の問題が扱われているので、ひょっとしたら死生学という切り口で見たら面白いかもと思ったのだが、今回そういう視点で読み返してみて改めて驚いた。辻邦生の文学にとって、<現実>と<美>の相克は、彼の文学の根拠にかかわる大きな問いだと言ってよいが、これはそのまま<死>と<生>の拮抗関係に当てはまる構図だと見えてきたからである。換言すれば、生と死の問題は、辻邦生の文学にとって、周辺的な一テーマというよりも、むしろ根幹にかかわる中心的な問題であるようなのだ。
例えば、『廻廊にて』のマーシャがアンドレに次のように告げるとき、<現実>と<美>の対立は、<死>と<生>のせめぎあいとして現れる。
ねえ、アンドレ。私は、ほんとうに、どうしてこんな風に変ったのかわからないの。前にもよく話したけれど、私は、絵をかいたあと、いつも空虚な気持ちになってしまう。そんな空虚な自分に、現実的なものが、妙に、黒々と重い感じで迫ってきたのよ。(……)私は知っていたの……この黒い重いものに、何という名をつけるべきか……そうなの、それは<死>だったのよ。飢えも病気も寒さも、<死>と肩をならべたもの、<死>の隣人だったために、こんなにも黒く重かったのね。そして<死>と同価値の行為、<死>と肩をならべる行為、つまり喋ったり、泣いたり、叫んだりではなく、死を避けもし、死をのりこえもする黙々とした行為だけが私には、本当のなすべきことに見えていたのだわ。(pp.127-129)
- 作者: 辻邦生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1973/05
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- 作者: 辻邦生
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1996/11
- メディア: 文庫
- クリック: 10回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
- 作者: 辻邦生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1999/06/30
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 26回
- この商品を含むブログ (32件) を見る
それにしても、辻邦生を読んでいると、つくづく正統派だなという印象を受ける。私としては、世界十大小説家のなかに辻邦生を入れてよいと思っている。それにしても、ひとつくらい代表作が仏訳されていてもいいのに。フランスとも縁のある作家なのだから*1。「蛙」という短編はアンソロジーに収められているけれども*2、管見の限りでは仏訳はそれだけ(ちなみに『安土往還記』は英訳がある)。同姓の作家の仏訳はいくつかあるようだけれども、ぜったい辻邦生のほうが大物ですって。(き)