サージュ・ファム

 いつだったか、妻が妊娠中、病院から帰ってきて「数日後にサージュ・ファムの人が家に来てくれるんだって」と言ったときには、思わず「サージュ・ファム?」と聞き返してしまった。「助産婦」に当たる単語だろうということは、文脈から想像がついたが、sage femmeって言ったら「賢女」じゃないか。ふむ、ドラクエ風に言うなら、「けんじゃ(おんな)」だな。そりゃ僧侶の呪文も覚えられるんだから、お産に関係することも面倒見ることができるのかもしれないけれど……。妻のフランス語力からして、これは聞き間違いだろうとタカをくくったが、さにあらず。単なるこちらの無知でありました。それにしても、どうしてsage-femmeなんて時代がかった印象の言葉が今でも使われているのか、そこにはどんな歴史的経緯があるのかという疑問は解消しないままだった。
 さて、フランスには、ミシェル・ヴィノックの作ったL’Histoireという、かれこれ四半世紀になる雑誌がある。これがなかなかいいつくりで、比較的手軽なのに、それでいて確かなパノラマ的展望を得ることができるので、興味があるテーマが取り上げられるときは買うようにしている。今回の号外 (hors du série n°32)は「子どもと家族」(L’enfant et la famille)特集で、初等教育のライシテと関係があるだろうとめくっていると、ジャック・ジェリJacques Gélis氏の「出産――マトローヌからサージュ・ファムへ」(L’Accouchement : de la matrone à la sage-femme)という記事があった。それによると、1760年ごろから、この転換が起こりはじめたという。以下はこの記事の私なりのまとめ。
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 フランスで、長い間、助産を務めていたのは、matrone(マトローヌ)と呼ばれる村の女たちだった。たいていの場合、特別な知識を持ち合わせていたわけでもないのに、たまたま立ち会った困難な出産で、赤ん坊を無事取り上げたといったことが評判となり、それ以後、村で誰かが出産するとなると駆けつけていた。それで生計を立てることができるような職業的なものではなく、慈善の精神で村の妊婦を助けていたのだった。子どもを産むときに医者を呼ぶという発想は、そもそもなかったと言ってよい。当時、医者と言えば男しか考えられず、出産という「女の仕事場」に男が立ち会うことは、ありえなかった。また、出産に伴う苦痛は、イヴの犯した原罪という宗教的な観点から、ある意味で当然のことと見なされていた。それでもマトローヌの仕事は、とにかく産婦をなだめ、落ち着かせることであった。そこには当然、迷信的なものが入ってくる。すると、司祭たちは快く思わない。マトローヌは魔女呼ばわりされることも少なくなかったのである。彼女らが何をしているのか監視しようにも、司祭も男であるから、出産の現場には立ち会えない。もうひとつの問題もあった。それは、出産中に産婦や新生児が死亡する事故も少なくなかったことである。そのような場合に、臨終の秘蹟も施せないことが問題視されていた。そこで司祭は、マトローヌを教区に一人だけにして、彼女に宗教的な教育をしっかり施した上、出産中に事故が起きた場合には略式の秘蹟を与えることができるようにしたのだった。
 18世紀になると、産科医や行政官が、マトローヌを糾弾しはじめるようになる。彼女たちにはまったく解剖学の知識がなく、出産に立会っては子どもを不具にしたり死なせたりするような取り上げ方をしているというのである。さらに、マトローヌたちはしばしば人工中絶や嬰児殺しの手助けをしていると批判された。折しも、国家が人口の動態を気にしはじめ、出産についての管理を進めているときだった。そこで政府は、出産にかかわる正確な知識を広める必要があると考えた。その後押しを受けて、出産についての知識の普及につとめたのが、マダム・デュ・クドレー(Madame Du Coudray)である。彼女は1760年頃マシーンと呼ばれる産婦と赤ん坊の人形を考案し、それを持ってフランス全土を駆け巡った(この人形の画像はこちらこちらで見ることができます。ややグロテスクかも)。こうして1760年から大革命までのあいだに、だいたい1万人から1万2千人のsages-femmes(サージュ・ファム)が登場してきたというから、知識の普及はずいぶん組織立っていたことがしれよう。こうしてだんだん、出産とは医療にかかわることで、産婦は病人のように扱われるようになってきた。もちろんそれによって旧来の出産のあり方がすぐに駆逐されたわけではなく、地方差をともないつつ19世紀を通じて根強く残っていたが、サージュ・ファムの影響力は着実に伸びていった。
 19世紀的な文脈でこのサージュ・ファムの位置が面白いのは、「迷信」ではなく「科学」的知識に基づいていながら、<女>として「教会」からの影響を強く受けていたことである。つまり、彼女たちは「司祭」と「医者」という正反対の価値観の持ち主たちのあいだに置かれていた。サージュ・ファムには、「哀れみ深いよきキリスト教徒」として、非の打ち所のない道徳的な言動が求められた。また、これは宗教倫理というよりも、医療倫理になるだろうが、出産に立ち会う家庭の秘密を他人に言いふらさないなど、品行方正であることが求められた。こうした条件は、サージュ・ファムを共同体から少し「浮いた」位置に置くことになる。実際、彼女たちは都会と村の媒介役を果たしていた。都会の医療技術と近代医学の価値観が、彼女たちを通って、村に浸透してくる。例えば、イギリスのエドワード・ジェンナーが発見した天然痘ワクチンを子どもたちに注射する役割を担ったのは、他ならぬサージュ・ファムであった。
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 「マトローヌからサージュ・ファムへ」と言うと、いかにもある時点を境に、近代的なサージュ・ファムが迷信的なマトローヌに取って代わったようだけれども、実際にはもうちょっと複雑なようだ。村のマトローヌは「よき母親」(bonne mère)とか「賢母」(mère sage)とも呼びならわされていたようだから。サージュ・ファムもすでに17世紀の後半から組織として公認されていたようだし、18世紀後半からの動きのなかでも、正確な知識を教わったマトローヌが、そのままサージュ・ファムになったということもあっただろうし。とにかく今のフランス語の語感だと、マトローヌという言葉にはやや軽蔑的な意味あいがあるようだ。もぐりの産婆とか、娼家を取り仕切る女主人とか、太った中年女とか。家に来てくれたサージュ・ファムに「マトロンヌ」って言ったら、果たしてどんな顔をされただろうか。(き)