死生学のワークショップ(於トゥールーズ)

capitole à Toulouse

 トゥールーズで死生学のコロックがあった。2月に東京で行われた同様の会議の延長にあるもので、日仏の若い研究者を中心とした、死にかんする研究のワークショップだ(私はフランスのだけに参加したが、日本からの参加者の多くは、ドイツのチュービンゲンで行われた生命倫理についての研究会議の足で、この南仏の都市にもやってきたのだった)。日本の小中学校で飼われている動物の死をめぐる教師と生徒の反応や、しりあがり寿の漫画における他界観、ダンス「ジゼル」における死の表象や、フランスにおける火葬の潮流、日本とヨーロッパの火の玉、ギリシアの葬送儀礼など、実に多様なもので*1、セッションごとのまとまりをどうつけるか、司会者の先生方は大変だったのではないかと察するが、様々な若手研究者の交流の場として、よいものだったと思う。
 私自身は、「辻邦生の文学における生と死」というタイトルで、主に『廻廊にて』『夏の砦』『西行花伝』を取り上げながら発表した。以前Emmaus氏から発表後の感触をと言われていたこともあるので、ご報告がてら感想を記しておこうと思うのだが、まあ概ね好評と言ってよさそうだった。フランス人側から特にその場で内容に立ち入った質問やコメントなどはなかったが、発表自体はクリアだったようだ。ペーパーも残したことだし、これは今後の展開を期待したい(ないならないでも、フランス語で発表できたことは収穫だし、自分なりに問題を深めていくことはいくらでもできるはずである)。
 かえって、日本人側からの反応が嬉しかった。私は宗教学ということで発表をしたのだったが、今回はじめてお会いした方は、私のことを仏文か国文と思ったらしい。これは逆に言えば、そちらのディシプリンの一定のレベルを満たしていると認めていただけたと取れるので、素直にありがたかった。日本の近世芸能をやっている方からは、『国文学』に載っていそうな話だと言われたし、日本文学で上代をやっている先生からは「国文に来ていただいても大丈夫というか」と言われた。これは最高の褒め言葉と受け取っている。私はフランス研究に本腰を入れるようになったのは、博士課程に進んでから(つまりここ6年ほど)なので、司会をやってくださったフランス哲学の方から「立派なものだよね」と言われたのもありがたかったし、19世紀フランス・スピリチュアリズム研究の大家の先生から「あなたの書いているのを読んで『夏の砦』を読みたくなりましたよ」というのも素直に嬉しかった。「で、中心的にやっているのは何なの?」という問いに答えなければならなかったけれども(笑)。
 すみません、まあまあ褒められたという感想文にしかなりませんでしたね。それでも非常に豊かな辻邦生の世界に比べれば、氷山の一角のさらに一角程度のことしか原稿にできなかったのですけれども。発表原稿(事前にレジュメ集が編まれた)の「序」と「結論」の部分だけ、以下に掲げておきます。あ、あと写真は、トゥールーズの中心地カピトール広場の建物です。(き)


 当発表は、現代日本を代表する作家、辻邦生(1925〜1999)の文学において、生と死の関係がどのように提示されているか、その諸相を描き出そうとするものである。ところで、この作家は、フランス人のあいだでは、まだほとんど知られていないと言ってよいだろう。現に、彼の代表作は、まだひとつもフランス語に訳されていない 。少なからぬ日本の作家の作品がフランス語に訳されている現在 、この「欠落」にはある種の戸惑いを覚えなくもない。この作家自身が、日本とフランスのあいだを何度も行き来し、フランスとの関係を大切なものと考えていただけに、仏訳の不在は奇妙にさえ思われる 。
 おそらくこの「非対称的な欠落」の一因は、一般に西欧の読者がアジア文学の「エキゾチック」な側面に関心を示しがちな点にあるのだろう。その点、辻邦生の作品からは「純日本的」な匂いは必ずしも漂ってこない。彼の文学は、最も良質な意味での近代文学正統派の系譜にある。欧米の読者は、辻邦生の作品に、自分たちにとって異質なものよりも、かえってよく知っているものを見出すのではないだろうか。ただ、見方を変えれば、西洋の読者にとって、辻邦生の視点は自分のものにしやすいはずであり、そこから出発して日本文化を深く理解し、また近代文学の射程の大きさを再確認するということも可能なはずである。
したがって、辻邦生の文学における生と死の関係が問題となれば、そこには近代西欧的な側面と日本の伝統的な側面とが同時に現れてくるのではないかと思われる。それに、生と死という問題系は、この作家にとって周辺的な問題などではなく、彼の関心の中核を形作ってさえいる。この問題は、彼が自分のことをいかなる宗教ともかかわりのない「無神論者」だと言っているだけに、いっそう興味深い 。実際、辻邦生の文学において提示される生と死の概念は、いかなる宗教的な権威にも従属せず、完全に近代的な地平で展開されている。言うなれば、この作家は、神の死後の時代を生きる私たちが、いかに生者と死者のあいだの人間的な関係を打ち立てるかという大問題を正面切って論じているのである 。
以下では、まず、彼の文学上の自己形成の時期に訪れた重要な出来事を論じることからはじめよう。第一に、戦争(第二次世界大戦)の衝撃が若き辻邦生に生の価値について熟考を促したこと、第二に、彼が27歳のときに実際に死にかけたこと、第三に、最初のヨーロッパ滞在の折に自分の文学の方向性を決定づける重要な経験(彼自身が「啓示」と呼んでいる)をしたこと――この3点を取り上げよう。
その上で作品の分析に入っていこう。当発表では辻邦生の処女長編である『廻廊にて』(1962年)、初期作品のなかの傑作『夏の砦』(1966年)、晩年の円熟期の大作『西行花伝』(1995年)を中心的に取り上げる 。もちろん他の作品でも生と死の諸相は様々な形で現れており、よって他の選択の仕方もありえただろうが、当発表でこれら3つの作品を選んだのは、特にそこで直接的かつ正面から生と死の問題が扱われていると思われたためである。

(本論略)

 結論にかえて――螺旋を描く霊的上昇

 人間の意志に支えられることによって、この世の生は、死にくまどりされているからこそ、いっそう美しく立ち現れてくる。この視点に立つなら、語られる死とは、見捨てられた死とは異なり、死者にも生者にも意味を与えるものとして現れる。ここでは、たとえ若くしてこの世を去ったり、悲劇的な死を迎えたりしても、必ずしも不幸とは限らない。
 辻邦生が信じたのは、このような、死すらも超える生のロジックである。こうした信仰のあり方は、この作家が死者を美化する死というものの機能について思い違いをしていないことによって、いっそう貴重なものになるように思われる。彼は理想主義的な作家である前に、現実主義的な作家であることに注意しよう。
マーシャがアンドレを亡くし、その亡骸の前で祈るとき、彼女は若き友人の屍体から異臭が漂ってくるのを認めて慄かざるをえない。マーシャは、この事実を「二重の喪失」と受け止める。「かけがえのない存在の死」と「死を飾るものの死」に直面して、マーシャはそれまで自分が属していたと思っていた美の世界から締め出されるように感じるのを防ぐことができないのである。<美>という想像の世界に再び戻ることを妨げるものとして、重々しい<現実>が介入してくるのである 。
 けれども辻邦生の作品において、最後に勝ち誇るのは<現実>ではない。美的なものを一度追い越した現実は、さらに想像的なものによって乗り越えられなければならない。同様に、生を切断するものとしての死は、もう一度、人間の意志によって、生のなかに包み込まれなければならない。このように、より大きな観点から見れば、美による高揚を妨げる厳しい現実とは、それに抗して人間であろうとする意志を持ち、より人間的になろうと努める者にとっては、ひとつの迂回路にすぎず、それを通って、精神は螺旋的に上昇を続けることをやめないだろう。

*1:ブログという性格上、どなたに見られることになるかわからないので、一応慎重を期して断っておくが、全発表のなかからこれら一部を列挙し他のを省略したのは、単に発表内容の多様性を示すためであって、今挙げたのに比べて挙げなかったものをどう思うとか、私のなかでの評価や個人的な関心とは必ずしも関係がない。