フランス・ノール県における道徳と学校のライシザシオン

 11月3日に「北フランスおよびベルギー諸州における16世紀から今日までの宗教と教育」というコロックがリール第三大学で開かれるのだが、なんと今回そこで発表をすることになっている。
 フランス語で学会発表するのは4回目だが、うち2回は東京での国際学会であり、3回目はこの前のトゥールーズで多少専門外の話を聴衆の半分が日本人という恵まれた環境でするというものだったため、実際に重点を置いて研究していることをフランスで、ある程度ちゃんとした場で発表するというのは、この国に丸4年滞在して初めてと言ってもよい。
 今回機会が与えられたのは、リールの指導教官であるプレヴォタ先生が、このコロックのテーマから、私のDEA論文を思い出してくれたからで、まったくありがたい話なのだが、自由思想や政教分離の歴史研究で名高いジャックリーヌ・ラルエットや、この地域の近世宗教史には不案内な私でも名前くらいは耳にしたことのあるアラン・ロッタンなどが発表者のなかにはいて、気後れを通り越して開き直るしかない状況である。
 というかプレヴォタ先生も、あなたも今テーズで忙しいのだから準備に時間をかけすぎる必要はなくて、DEAでやったことを取り上げ直して2、30分話してくれればよい、それよりもあなたの仕事を知ってもらうことが重要だと言ってくださっており、その言葉に甘えて怖い者知らずでぶつかってこようと思う。
 そういうわけでここ1週間ほど、3年前に書いたDEA論文「宗教学/宗教史の問題としてのライックな道徳1870-1914――ノール県の事例を通して見た学校でのライックな道徳」を読み返しながら、原稿を作っているが、そうすると懐かしい思い出が甦ってくる。県立古文書館に通い詰め、冷え切った足を暖めながらマニュスクリ相手に孤軍奮闘し、休憩場所でなぜかしょっちゅうスニッカーズを食べていたこと。ルーアン近郊の教育博物館で、昔の生徒のノートを写しているうちに冬の早い日が暮れてしまい、放心した状態で街に戻ると、逆方向に乗った満員のトラムが動かなくなってしまったこと。ノートの収集家を訪ねて南仏に赴き、雑然としたアトリエに驚愕させられたこと。そうしたことをいろいろと思い出してしまい、ここのところ、夢でも3、4年くらい前のことが出てきてしまうようで――起きると内容は忘れているのだが――、不思議な感覚である。
 DEA論文の核心は、書いた当人に言わせれば、ノール県の特殊性を浮き彫りにする点というよりは、むしろナショナルなレベルでの道徳教育の内容の共通性に注目しつつその構造分析を行い、いかなる意味でライックな道徳が宗教的と感受されうるのかその諸相を分析するという点にあるのだが、今回のような発表では、地域の特殊性を前に出した方がよいだろう。
 そこで、以下のような発表の流れにするつもり。
 一、どうして一外国人たる私が、ノール県における教育のライシザシオンなどというテーマに興味をもっているのか? 私のスタンスとしては、第三共和政期に小学校で教えられたライックな道徳を宗教性の観点から分析したいというもの。それを具体的に見ていくためにノール県の事例を扱うが、その際、地域的な特殊性をつかみ出すこととそれを全国レベルで位置づけることの両方が重要であろう。
 二、ノール県の最大の特徴は、右も左も強いということ。そのなかでライシザシオンが「成功」したということ。第三共和政初期のノール県における教育のライシザシオンとその特徴を知るための参考文献としては、以下のものを参照。Bernard Ménager, La laïcisation des écoles communales dans le département du Nord 1879-1899, Université de Lille, 1971 ; Philippe Marchand, École et écoliers dans le Nord au XIXe siècle, CNDP / CRDP Lille, 1984 ; Pierre Pierrard (éd.), Les diocèses de Cambrai et de Lille, Beauchesne, 1978 ; Archives départementale du Nord, Les Églises et l’État d’une séparation à l’autre 1789-1905, Snoeck, 2005.
 三、公立学校で教えられていた道徳教育に、ノール県ならではの特徴を見出すことが果たしてできるだろうか? そもそも、どうやって第三共和政下の道徳の授業を再構成できるだろうか? ノール県ではどのような教科書が使われていたかはだいたいわかる。また、生徒のノートも一次資料となる。ただ、道徳の「内容」に注目する限り、地域的特性よりもナショナルなレベルでの同一性の方がどうしても目立ってくる。
 四、そのことを踏まえて、ライシザシオンの過程を時期にわけて見るとどうなるか? 第一期はフェリー法(1882年)からゴブレ法(1886)まで。この時期はノール県知事も、カンブレーの司教も、正面衝突を避ける態度を取っており、すでにあった県内の地勢図のプロポーションに沿ってライシザシオンが進行する。すなわち、ダンケルクやアゼブルックなど県の北西部は依然カトリックが強く、リールあたりはライックとカトリックの勢力争い、ヴァランシエンヌ、ドゥエーなど県の南東部ではかなりの割合で修道会系学校が閉鎖する。第二期は、1886年頃からで、新しい県知事が割と強硬にライシザシオンを推し進め、男子公立校は完全にライックとなる。第三期は世紀転換期頃から始まり、女子公立校のライシザシオンが、1904年7月7日の法律で加速され、第一次世界大戦前夜には、県内の「すべての公立学校はライックになっている」と視学官は報告している。
 五、ノール県におけるライシザシオンの「成功」は、ブルターニュバスクの例と比較するとわかりやすいだろう。これらの地域に比べて、ノール県ではフラマン語を駆逐する格好でフランス語が根づいている。ダンケルクのある町では、小学校教師が司祭に対して、自分の息子へのカテキスムをフランス語で行ってほしいと要請したところ、拒まれ、ちょっとした事件が起こっているが、当時の上院議員などは、フランス語は「私たちの人種の優秀さ」を示すもので、「フランス語で説教しなさい」などと息巻いている。
 こうやって最後にフラマン語を取り上げたのは、今回のコロックのテーマが北フランスとベルギーにまたがっているからで……という感じで締めれば、何とか発表の体裁はつくだろうか。
 そういうわけで、もうこんな形で発表するしかないだろうという気になってきたので、うちに来てくださったすなめり鹿さんと昼間からビールを飲むことになった。(き)