シテ・フィロ開幕

 リールの11月の恒例行事、シテ・フィロがはじまった。今年で10回目を数えるこの催物は、その設立者のひとり、ジルベール・グラスマンによれば、大学での「コロック」のように専門家同士(およびその道を志す学生)の議論の場でもなく、街の「カフェ・フィロ」のようにアマチュア同士の対話をするところでもなく、専門家でない公衆が専門家と出会うことができる場を無料で提供するというコンセプトではじまったものだ(シテ・フィロのページはこちら)。
 「大物」と目される哲学者も、しばしばこのシテ・フィロにやってくる。2002年にはアラン・フィンケルクロートを見に行った(滞在1年目で話の内容はほとんどわからなかったけれども)。2004年にはデリダが来る予定だった(が、その直前に亡くなってしまった)。同じ年に、初めてマルセル・ゴーシェが話すのを聴いた。IndividualisationとIndividuationの違いを語っていたのが印象的だった。
 去年2005年のテーマはSéparationで、もちろん政教分離のことをすぐ想像したけれども、政教分離やライシテの問題をタイトルに含むものはなぜかまったくなく、私としては残念だった。レジス・ドゥブレとか、アラン・トゥーレーヌとか、アラン・ルノーとか、ミシェル・ヴィエヴィオルカとか、来てくれれば万障繰り上げて最前列で聴いたのに。おそらくテーマを決めた後で呼ぼうとして断られたのではないかなど邪推している。
 私のはかなりミーハー趣味で、門外漢でも知っている名前くらいしか知らないけれども、今は日本に完全帰国されてしまったhf氏は現代フランス哲学に造詣が深く、こちらが知らない名前がよく出てきた。彼から教えてもらった有能な若手哲学者も何人かいる。きっと毎年この11月を楽しみにしておられたことと思う。彼のブログには2000年と2002年のシテ・フィロについて触れてあるので、ご興味のある方はどうぞ(2000年11月3日のエントリー2002年11月7日のエントリー)。ちなみにhfさん、ご覧になられていればですけど、Meuraという例の本屋さん、なんでも店主が今年で引退するらしく、店をこの後どうするかは、ちょっと不透明らしいですよ。
 さて、シテ・フィロは11月のリールの「恒例行事」と言ってしまったけれども、ルーティンに堕さないように年々企画側はいろいろと案を練っているようだ。今年の10周年のテーマに、Commémorationではなく、Commencementsを据えているのも象徴的だ。20世紀のパラダイムを抜け出そうという思いがあるらしい。それに、Commencement(s)と言えば、origine(s)や fin(s)との対比で、哲学的に議論の尽きないテーマなのだろう。
 今日のオープニング・セッションには、アラン・バディウとベルナール・スティグラー(『世界を再呪術化する』の著者)が来るというので――それからアラン・プロシアンという生物学者――、ミーハー根性でバディウを見に行こう、スティグラーの話は自分にとっても面白いかもしれないから期待しよう、と思っていくと、スティグラーはなぜか数日前から音信不通(エキセントリックなところのある人なのだろうか?)、バディウは家庭の事情ということで(バディウは去年も列車が止まったとかで、2時間くらい遅れ、私は彼の姿を見ずに帰った経緯がある)、プロシアン以外は急遽別メンバー。シテ・フィロ、これはナニゲに<誇大広告>じゃありませんか?
 しかし、これまでぜんぜん知らなかったプロシアン氏はなかなかユーモアたっぷりで、パネリストの3人が、生物学者、哲学者、政治学者となかなか対照的で、互いに相容れないところもあり、議論も白熱して見ているぶんには面白かった。
 「悪いけど、まったく同意できないね」――日本人どうしだと、面と向かってこうはなかなか言いにくいような気がするけれども(単に私の性格かもしれない)、あるいはこう言ってしまうと人格までも否定するように響きかねない印象があるけれども、フランス人の議論にははっきりとdésolé, je ne suis pas du tout d’accord avec toiというのが出て来るときがある。発言内容の否定と相手の人格云々は、基本的にはまったく次元が別なのだ。むしろ相手を尊重したうえで、自分は同じじゃないんだから同じにしないでくれという凛々しい拒絶をしているようで、時にはそれが美しくも見える。議論や立場の対立点もそれで明らかになるし。フランス語でのやりとりにきちんと着いていけるいい耳を持って、いい議論の場に足を運ぶ機会に恵まれれば得るものは多いと思う。そう簡単なことではないだろうけれど。(き)