シテ・フィロ最終日

11月の恒例行事シテ・フィロも今日が最終日。家事・育児に追われてフィロソフィどころではなかったけれど、最終日の今日、ゲストがドゥルーズについて書いている人だったのもあって、夫が行ってきなよ、と快く背中を押してくれた。慌ててまあちゃんにおっぱいをあげて、開始時間の5時半を少し過ぎて家を出ると、あたりはもう暗くなりかけ。街路樹の落葉もそろそろ終わりに近づいて、乾燥しきった黄色い葉がときどきごそっと落ちてくる。リベルテ大通りではプラタナスの濡れ落ち葉をシャワー車みたいなので掃き流していた。秋も終わりだなあ。
会場はジャンヌダルク通りにあるL’ecartという名のcafé culturel(って初めて聞いた;;)で、お店の人がプレゼンターの一人だったらしい。(シテ・フィロのスタッフとかかな。)カフェに入ると大入り満席立ち見状態で、奥から声は聞こえてくるが話している人の顔もまるで見えない。シテ・フィロ大トリの当ディスカッション、テーマはComment débuter en philosophie ? 今回のシテ・フィロのテーマがCommencementだったので、それにちなんで「哲学し始める」ことについて、最近哲学の長いスパンでの概説書を出したばかりの二人の研究者が呼ばれた様子。一人はクレルモン・フェラン大学の教授、クリスティアン・ゴダン氏、La philosophie pour les nulsなどの著者。(このガーデニングから神話から哲学まで幅広いpour les nuls シリーズが哲学的とは全く思わないけれど・・・。実際どうなんでしょう。)もう一人が、私のお目当てだったジャン=クレ・マルタン氏。ドゥルーズが存命中に、Variationというタイトルの研究書というよりドゥルーズ的なやり方で思考してみた、という雰囲気の美しい本を書いて、ドゥルーズ本人から序文をもらった今や数少ないドゥルーズの残り香のする哲学者。この本、私が卒論を書いたときに感銘を受けつつ読んだ数少ない研究書の一つで、彼のボルヘスについてのフレーズは、ドゥルーズが書いたのか、マルタン氏が書いたのか頭の中でわからなくなっているほど、「ドゥルーズの延長線上」にある美しいもので、ドゥルーズの見方がそれ以降哲学書を読む基礎になってしまっているのと同じような感じで、その後ボルヘスを読む基盤になったものだ。

ドゥルーズ・変奏

ドゥルーズ・変奏

ディスカッション自体は正直期待はずれで、Comment débuter en philosophie ? という問いが哲学的にnulならばpour les nulsの本を書いたゴダン氏もやっぱり(少なくとも私にとっては)nul、そのnul加減を理解しつつ論点を見つけ出していたプレゼンターの一人(おそらくリールのリセ・フェデルブの哲学教師、je ne sais pas)はちょっと面白いことを言っていたけれど、問いを真面目に引き受けすぎたジャン=クレ・マルタン氏は本質的なことを言っていたにも関わらず恐ろしく彼の提示が他の論者(特にゴダン氏)の誰にも理解されてなかった様子で気の毒だった。
私の理解した範囲では、哲学教師が言っていたのはこういうこと、つまり、行動、行為には断絶があるから0地点を設定しうる、何年生になったから英語の勉強が始まる、というように。でもそれで、英語の勉強が始まるということになるのかというと、おそらくずっと前から耳にはしていただろうし、見る機会読む機会もあっただろうから、いつ始めたというのは本質的には設定するのが難しい、そもそも知るということは(ソクラテスの言うように)魂が既に存在するところの「真実」に気づくということなのだから、魂は見えていないだけで本当は知っている、のだとすると、「哲学を始める」という問いはnulだよね、大体考えないということはあり得ないし、云々ということで、哲学における始める/終わるという問題の持つ不自然な点をうまく指摘していた、と思う。
マルタン氏はもっと深く何でこんな問いが出てくるのか悩んでしまった様子。(ここからは私の疑問だけれど)大体ドゥルージアン的には「私」がいつ始まるか、「生命」がいつ始まるかだって、大いに謎だし設定不可能なところなのだ。私はどこで生まれたのか?受精前、あるいは出生前に私の生命は存在していたのか、あるいはいなかったのか?精子の段階・胎児の段階は生命としてどうなのか?あるいは自我が目覚める前、記憶が生まれる前に「私」は存在したのか?などなど。物質の流れに始まり/終わりはあってないようなもの、例えば火山が爆発する前に地下のマグマは猛烈に運動しているのだし、意識や感覚だってそれまでの長い年月の積み重ねから生じるものだ。0は一つの概念であって、物事を流れでとらえるドゥルージアン的にはあんまり意味を持たない。マルタン氏が名前を挙げたのは、つまりこんな問いが出てくるのはデカルトの影響だろう、と。私のフランス語理解はかなり怪しいけれど、要するに近代的自我、のオリジンがデカルトにあって、こんな問いを発するのはその悪影響だ、と言いたかったのではないかと思っている。「我思う・ゆえに我あり」的には、「我哲学を始めようと思う・ゆえに我哲学を始める→しかしどうやって?」というようになるのではないか、と。大体始めようと思うときにはすでに哲学という言葉を何かしら捉えているのだし、その捉えているもの(これを「オリジン」とマルタン氏は言ったんでしょうね)が何なのかを見据えることの方がよっぽど哲学的なのではないかと。例えばカントの研究書を(哲学史上の大物だからという理由で)まず読んでみようなどとすることよりも。
「どうやって始めるか?」がとても大事な問いになる場合は多々あるけれど・・・哲学、に関してはそれはnulだよね、という感覚が少なくとも二人の論者には共有されていたのだけれど、あとの二人には欠けていたらしいのが残念。だって、ソクラテスが言ったように、「哲学する」は「歩く」「食べる」「生きる」と同じように、動詞なのだから。どうやって歩き始めるか、考える? どうやって食べ始めるか、どうやって生き始めるか。ちょっと、面白いけれど。
うれしかったのは、ジャン=クレ・マルタン氏の話し方や抑揚、思考の仕方にドゥルーズの残したものが感じられたこと。ちょっと涙が出そうになった。それだけでも大きな収穫だった。でもゴダン氏のnulな答えを受けてドゥルーズの気配は遠のいてしまった。あーあ、という感じ。
まあちゃんも気になったし、質問コーナーが始まったあたりで帰ってきてしまったけれど、久しぶりにフィロの現場に立ち会えて面白い夜でした。(ふ)