幸田文『闘』――結核の近代文学

 ここのところ寝る前に幸田文の『闘』を読んでいて、それが読み終わった。いつかおひるね堂さんが日本から持ってきてくれた文庫本のひとつで、今まで手をつけていなかったものだ。結核病棟を舞台にした小説で、様々な患者と医者や看護婦のやりとりを追っていくと、同じ病気といっても、その背負い方は千差万別だという思いを抱かされる。これといった主人公はいなくても、10年以上入院生活を続けている別呂省吾という患者が狂言回しの役割を担っていると言ってもいいだろう。
 近代日本文学における死生観ということを漠然と考えているのだが、この問題にとって、病院というものが持っている二つの側面を考慮に入れることは重要だろう。この施設には、技術という、病に対する勝利をもたらしてくれるものの魅力がある一方で、いかめしい冷たさがある。「魅惑の世俗化」は「世界の脱魔術化」と歩調をあわせていた(現在は「世俗価値の脱魔術化」が起こっているのかもしれない)。
 また、結核と言えば、コレラと並ぶ、「近代」の二大死病である。しかも両者には対照的なところがある。前者は「三日コロリ」とも言われるように潜伏期間が短く、あっという間に命をさらわれる。ひどい脱水症状を引き起こし、美しい顔で死ぬのは困難だ。後者からは療養生活が思い浮かぶ。華々しい大喀血の赤という印象も強いが、死が近づくにつれて肉体的・霊的に澄んでいくというイメージもある。
 たぶん日本の近代文学で、赤の結核イメージを作ったのは徳富蘆花『不如帰』、白の結核イメージを作ったのは堀辰雄『菜穂子』だろう。他にも結核を描いた近代文学と言えば、正岡子規トーマス・マンなどの名前が思い浮かぶ。そこに幸田文を加えるとしたらどうなるか。一応そうした系譜的、概念的な関心もどこかにおいて『闘』を読みはじめた。

闘―とう (1973年)

闘―とう (1973年)

 だが、実際に読みはじめて感じさせられるのは、系譜とか概念とかで一応読んでいけそうなところもある一方で、そうした枠では迫っていけそうにない、筆者の注意深い観察眼やモラルが息づいているということだ。例えば次の文章など、一応は「近代型病院」の批判と受け止められるが、批判をしたくて書いている以上のものがある。

 喜助はそこへしゃがんで建物の入り口をさりげなく眺める。これは左官職喜助の、習慣である。入り口は人でいえば顔のようなもの、初対面にはなるべくいい顔にあいたい、という縁起かつぎのような気持ちがあった。ひと目でここの入り口は気に入らなかった。古い建物だから仕方もないが、病院だというのに入り口に五段もの階段をつけた設計はどういう気だろう。それにその段の割りかたがきつい。上り下りするのは病人に決まっているのに、思いやりのない冷淡な入り口を作ったものだ。

 小説家は、ある概念と別の概念のあいだにどのような衝突が生まれるだろうかは重々承知で、その上で作品を書くのだろうから、これはある意味で当然のことだけれども、例えば「患者の心」対「病院」といった単純な二項対立は当然成り立たない。幸田文の筆においては、医者や看護婦は配慮の行き届いた生身の人間で、季節の変化にも敏感だ。

 先生は冬陽に腕をのばして、白衣の袖を眺め、松林の下草の枯れ色を見比べる。あたりが枯れてきたとき白がちかちかし、真冬のすっかり枯れたとき、白も萎えて際立たなくなり、花時の白は無色と同じ、夏の白は汚ればかり、これが医者の四季だと思う。

 患者にも、だらしのないのから地に足の着いた生き様が闘病に現れているもの、ヒステリックなのから折り目正しい人物までいろいろだ。幸田文はどちらかと言えば女性に対して厳しい視線を注いでいる印象を受けるけれども。
 特に印象深いのは、上に引いた左官の喜助、農家の寺田宇市、元裁判官の鶴巻亨、若い秀才銀行員の志摩晶彦、もうすぐ退院というのに不安を抱えている茅薙うい子、そして病院の大将と呼ばれる別呂省吾。
 喜助は死ぬ直前の小康状態のときに、先生に左官の極意を聞かれて「定規あてたように、ぴたっと、平ら」と答える。なるほどとうなずく先生に対して、こう付け加える。「先生、極意をきき忘れちゃいけない。平ら平らっていうけど、本当は、ウソがなくっちゃいけないんだ。ただ平らだけなら、定規があれば済む。だが、定規通りの平らでも、場所によっちゃ、あかりに食われちまう。出っ張ってみえたり凹んでみえたり。そこだ、ウソがいるのは。紙一重、毛筋一本、ウソを乗せたり、削ったり」。喜助は鏝の技を語っているのだが、このひとさじの加減具合が大事ということでは、諸芸の奥義に通じる響きがある。
 宇市には、70になるまで農業一筋で鍛え上げた心の持ち方があり、辛い病気でも文句も愚痴も言わない優良患者だ。病院のスタッフからも好感をもたれ、彼自身、決して病院が嫌いなわけではない。けれども、自分の死が近いことを自覚したある日、ぽつりと「うちへ帰りたくなった」と先生に告げる。先生も物理的・常識的に無理なことを承知で、何とか帰してあげたくなる。そこで、家に電報を打つと、息子が畑で取れた花と作物を持って病院にやってくる。「老人は今朝、本能的としか思えない察知しかたで死期をさとり、帰宅したいといいだし、息子は電報で呼ばれて駆けつけてきている。それなのにこの親子は、花を見、作物を語って頬をゆるめていた」。看護婦はこう思う。「農耕の父子が農の道を語りあえば、永別の悲しみより、豆の花麦の穂の喜びがまさるのかと」。宇市は結局そのまま病院で息を引き取るのだが、「いずれ先生が帰してくれる筈だと思うけど、もう帰ったみたいだな、みんながいて」。こう言って静かに旅立つのである。
 元裁判官の鶴巻氏は、明治中頃の生まれで、忍苦の精神が身についており、仏教書にも親んで、死を控えて従容としている。「夏川先生は最初に逢ったとき、ひと目でこれはしっかりした老人だな、という印象をうけた。言葉が軽々しくなかった。首が真っ直ぐに立っていた。和服の襟が正しく合わさっていた。手が膝の上に落着けられていた。坐作がきまっていた。だらしない、汚らしいというところが一つも見当たらない人だった。日常生活というか、これ迄の人生というかが推しはかられた。昨日今日身につけたものではない」。死が近づいてきても、苦しいだろうに、言動、物腰がまったく崩れない。丁寧な口調で――もちろんこれは鶴巻氏の幻覚である――二つ割りにした大きな赤い西瓜が胸に乗っているのが苦しいので取りのけていただきたい、などと申し出て先生をハッとさせる。航海に出ている次男の帰朝を待って、驚異的な粘りを見せる。息子も父に答えて港に着くと一途に病院へ急行し、一日二日の看病に間に合う。「臨終は静かだった」。
 若い銀行員の志摩晶彦は、入院後、主任の先生との会談で療養の方針を把握すると、一日で自分の自由になる時間を弾き出し、このような病気にならなかったらやることもなかったであろうロシア語の修得をはじめる。「病室とは病気が主になって占領している室であり、病院中のどの部屋もみな、病気が威張って居座っている。病気が重いとき病室は、みだりに他人の入るのを許さない厳しい空気がある。が、病気が軽減しはじめると、しばしば見受けられるのは、娯楽と怠惰と不規律の、だれた空気である。この部屋も今迄は誰がいても病気が占領している部屋だった。だが今、晶彦が入ったらそれが勉強室のような感じになった。病気が主人ではなくて、本人が主人であり、次いで幅をとっているのは、だんだん増えていく書物やノートの類、しかし薬とかコップとか検温計とかも、きちんとひとまとめにサイドテーブルに席を与えられていた」。周りからは、いささかお高くとまっているとか、知識にがめついとか思われたりもするのだが、こうした療養が効果を挙げて、病気の方がすごすご退散するかのようになって、晶彦は爽やかに病院を後にする。
 茅薙うい子は小学生の頃からずっと病院暮らしで、17歳になった今ようやく治療が済んで退院しようとしている。父親は早くに亡くなり、母親がまさに獅子奮迅のはたらきで娘の闘病にかかる費用をやりくりしてきた。母親はかっと喜んでいるが、娘の方はもうすぐ退院という事実に実感が湧いてこない。それどころか、自分と同じ年頃の者たちは中学、高校と教育を受け、社会にも乗り出しているのに、と考えて不安に襲われる。ようやく治って普通になるのだと言われると、病中の時間がそっくりブランクであるように感じられるのだった。そして母親の喜びと励ましの言葉がますますプレッシャーとなる。「治ろうね、が合言葉だったときは、今思えばたのしかった。いつも母と一緒で、共によろこび共に愁いて、同じ気持だった。それを疑ったことはない。が、いまは二人は別々だった。母は一人で力んで、しっかりしてね、を押付けてくるがこちらはその言葉に責められる。今迄は母の労働の姿を見てもなんでもなかったが、今はそれも圧迫におもう。自分が病んでいるためにそんなに苦労させて、母さんすみませんと詫びたい気持と、とてもこの頑丈な健康にはこれから先も、ついては行けないと思う隔たりを感じるのである」。そしてうい子は毒を仰いで自ら命を断ってしまう。
 この事件を聞いた別呂省吾の反応がなかなか興味深い。確かに形の上から言えば自殺だが、あれは寿命なんじゃないか、死のうと思って同じようにしても上手く死ねないケースだってあるじゃないか、というようなことを言う。

「食堂でうい子が、急に立っていくのを見ていたうるさ型連中が、なぜ疑わなかったかねえ。いつもなら、どうしたのって根掘り葉掘りだ。」
「そうだね。」
「一緒のテーブルにいた二人もそうだ。塩でも取りにいったかと思ってた、というけれどそれきり戻ってこないのが、どうして気にならなかったろうね。」
「うむ。」
「うい子は、ふっと後ろを振りむくようにして「あ、ちょっと」といって立ったというが、これはどう考えたらいいだろう。」
「そうね、ふりむくということは――」
「――そうなんだ。それなんだ。何かのことがなければ振り向くわけがない。声だろうか、音だろうか、何かを聞いたんじゃないかね。だから振り向いた。そして多分、誘われてるような気がしたんだろうなあ。で、立ち上がって「あ、ちょっと」といって出て行った、ということになるんだが、この一言、友達二人への挨拶とするなら「あ、ちょっと失礼して中座を」という意味だ。だが「あ、ちょっと待って下さい」とも考えられる。これだと、出て行くのを暫時ためらったわけになるんだが、どっちかなあ。」
「でも、それじゃその呼んだの、誰なんだ。」
「誰の彼のと、そういうのとは少し違う。ただ、うい子の耳には、その声だか、音だかが聞こえたんだろうね。」
「ふうん、すると別呂さんは、うい子がそういう、いわばまあお告げとか、啓示とかいうような、本人にしか聞こえないものに誘われて、出て行ったというように解釈しているんだね。」
「まあね。つまりうい子にはそんなふうにして定刻がもたらされたんじゃないか、とね。」

 うい子の死から、省吾は「自分には過失はあるかもしれないが故意はしない」ということを人に伝えておくべきだということを引き出して、この対談相手の信也に言う。実際、省吾自身が死ぬときも、傍目には故意なのか過失なのか判断が付きかねる事故で命を向うに持っていかれる。あれは故意ではありませんと信也が病院の人たちに伝えるところがラストになっているので、その意味ではこのシーンはラストへの伏線になっている。
 同じ結核という病気でも、これだけ人物が違うとこんなに違う出方をするものか――最初に述べたことの繰り返しだが、作品全体を読み終わってからもう一度思い描こうとすると、ところどころ鮮明なイメージとともに、そういう印象を得る。(き)