フェルメールを訪ねて

 先週2泊3日でオランダのデン・ハーグまで出かけてきた。お目当てはマウリッツハウス所蔵のフェルメールの作品、とりわけ「デルフトの眺望」。
 ヨーロッパ滞在中にフェルメールとベラスケスは本場で見たいと思っていた。ベラスケスははじめての夏のヴァカンスのときにプラド美術館で見た。フェルメールは2年半前に友人とアムステルダムに出かけて、国立美術館保存の作品は見たが、そのときはハーグに寄る余裕はなかった。
 完全帰国の日程が近づき、「デルフト」を見ずに帰れるかという思いが募ってきた。「青いターバンの少女」は大阪に来ていたときに見ていたが、こちらで再会するのもよいと思われた。これは谷川俊太郎が言っていたことだと思うが、フェルメールは本物を見た後に絵葉書などの複製を見ると「渇き」を覚える度合いが強い。実物を脳裏に思い浮かべれば思い浮かべるほど、やはり自分の網膜に映してみなければだめだということになる。
 それにしても、かの「デルフト」をどうやって言葉にしてみたものか。実物を見る前に絵葉書などでイメージしていたのは、今にも動き出しそうな雲と運河を永遠の今の相のもとにとらえる雄大ロイスダール的風景。けれども実際に見ると「流れ」を思わせるというより「瞬間」をつかまえている。画面中央奥の市街地と新教会に雲間から光が差し込んでいる。その観点から眺めると、画面上の灰色の雲と画面下の岸辺は構成的に非常に効いている。街並みは画面右の建物の方が眺めるにつれて実在感が出てくるのに対して、左側の方はあまり浮かび上がってこない。視線は自然に中央から画面右側に誘われていく格好だ。
 室内を描いたフェルメールの絵に比較的よく当てはまる「静謐」という言葉は、「デルフト」にかんしてはあまりぴったりとこないように思われる。詩情的ではあっても情緒的ではない目で主観と客観が一致するところまで眺め尽くすという途方もない道のりと、ある世界の誕生を目撃したときのような瞬間の邂逅をキャンバスに定着させた感じ(ああ、しかしこうした言葉で表そうとしたところで、作品に近づけないどころか、かえって遠ざかっていく気さえする)。
 マウリッツハウス美術館からデルフトまでは、1番のトラムに30分ほど揺られれば行けて、フェルメールが「デルフトの眺望」を描いた場所にも立つことができる。私の記憶違いでなければ、大岡信はここに立ったときに「300年以上も前に絵に描かれたのとまったく同じ風景がある」と感じたそうだが、それはやはり詩人の感性のなせるわざなのだろうか、残念ながら私にはそのようには思えなかった。
 実際にその場所に立ってみて、まず、絵画の視線はえらい仰角なのだなと思わされた。もっともこれはフェルメールに限らず、オランダ絵画一般に言えることかもしれない。画面の上60パーセント以上が空というオランダ風景画を見ると、オランダは土地が低いから空の面積が広いのだと考えてしまうけれども、実際にオランダを歩いて同じ効果を得るには、かなり上を向かなければならない。
 次に、デルフトの街並み、特に新教会の位置が、絵では奥に引っ込んでいるように感じられるが、実際の風景ではずいぶん近い位置にあるように見えることだ。その観点から眺め直してみると、実際の風景は必ずしもピトレスクだとは思えない。建物が変わっているのはもちろん時代のせいだろう。運河の流れが違っているのは、時とともに今のようになったのか、それとも絵画では構成的に描かれているのかわからない。フェルメールは、おそらく「目に殉ずる」描き方はしたが、自然主義的な「ありのまま」を描いたのではない。二つのことは違うのだと感じた。(き)

あれ?画像を並べてみると実際に受ける印象よりも「近い」感じがする。「違う」ということについては、こちらのページも参照してみてください。それから、フェルメールについては、かなり気合の入った本格的なページがあります。