ストゥナンス

 11月22日から12月4日まで、フランスに短期滞在しました。一番の目的は、11月30日に予定されていたテーズのストゥナンスを受けるため。研究者人生の大きな節目の出来事ですので、印象など記しておこうと思います。
 分野によって違うかもしれませんが、日本では博士論文の審査が候補者と教授陣のあいだだけで行われる非公開なものであるのに対し、フランスでは少なくとも文系は公開というのが一般的です。学友のほか、研究とは関係のない友人や家族も誘って応援してもらいます。
 私の場合、家族も連れて行きたかったですが、予算の関係上、日本で待っていてもらうことにしました。その代わり、リールでお世話になりかつまだ当地在住の方で、分野が違っても、私が学問面でしていることに少しでも興味もっていただけそうな方にはご案内を差し上げました。教授陣と私のほかに5人以下だと淋しいなと思っていましたが、声をかけた人が予期せぬ人を連れてきてくれたりして、聴衆は20人近くになりました。
 先ほど、審査は公開と言いましたが、なかにはこれからテーズを書くリール第三大学の学生が3人ほど聞きにきてくれました。後から聞いたところによると、他人のテーズのストゥナンスに参加して小さなレポートを作成すると、ジュルネ・デチュード(一日をある研究テーマにあてがう)に参加したのと同じ単位になるとのこと。最近できた制度らしいですが、これはフランスの論文審査の公開性を生かした、よいアイデアだと思います。
 さて、現職大統領による年金制度改革への反対運動のため、大学によっては講義が中止されていたり、建物が閉鎖されていたりしたので、審査が無事に行われるか多少不安なところもありました。前日下見に行ったところ、はたせるかな、審査会場のある建物のメイン・ゲートが、机とイスのバリケードで封鎖されていました。幸い、建物裏手の地下駐車場から建物自体には入れることが判明したので、審査員およびご案内を差し上げた方々に状況を通知し、当日はかなり早めに出かけ、道案内を書いた紙を張り出しました。殺風景な駐車場から出入りしましたから、何か裏口からの卒業といった気分にもなりましたが(笑)、これもきっといい思い出になるでしょう。

 審査員は6人で、議論は4時間近くに及びました。前半はがんばってディフェンスしましたが、最後のほうはヘロヘロに疲れ果てました。
 最初の20分くらいは、候補者である私がテーズの内容の一般的な提示を行いました。原稿は用意してあったので、読むだけといえば読むだけですが、棒読みではいけませんから、自分なりに節をつけたり、アイ・コンタクトを送ったり、少し場を和ませるために軽く笑いを取ろうとしてみたり。試みは、多少の功を奏しはしたようですが、基本的に6人の審査員は顔色ひとつ変えずこちらを睨みつけ(ているように私には思えた)、メモを取ったりしています。場合によっては驚きの表情とともに身体をのけぞらせてみたり、首を傾げたり、横に振ったりしますから、かなりのプレッシャーを与えられましたが、逆に自分の身は自分で守るしかないのだと(笑)ふっきれたところもあります。
 審査員のなかで最初にコメントを行ったのは、ジャン・ボベロ教授。パリEPHEの先生ですが、私はリール第三大学にメインの登録をしながら、彼に共同指導をお願いしていたので、直接の指導教官のひとりでもあります。テーズを書いているあいだは、「あなたのはencyclopédiqueだからもっとproblématiqueにしなさい」と言われ続けました。私としては十分にproblématiqueなつもりだったのですが、うまく伝える書き方ができていない気がしました。全体が見えればわかってもらえるだろうと信じて、書いたものを見せに行っては、あちこち書き直しを命じられました。厳しかったですが、ここはあれを読め、そこはどれを読めという指定が正確で、ときには100年以上も前の雑誌のこのページという指定があって驚きました。提出後から審査までのあいだにメールでコンタクトを取ったところ、belle thèse, intéressante et originaleという反応が返ってきて、思わずジーンと来ました。さて、審査当日のコメントですが、「大胆なテーズだ、ちょっと大胆すぎるかもしれない」と言われました。私はフランスのライシテ研究者のなかで、ボベロほど正確な知識に基づきながら大胆なことを言う人を知らないので、これは最大級の賛辞と受け取りました。
 2番手は、リール第三大学のジャック・プレヴォタ教授。もうひとりの指導教官で、アクション・フランセーズを中心とした近現代カトリックの専門家ですが、私にとっては5年前にフランスに来てから、ずっと研究の進展を見守っていただいた先生です。学生からは「恐い」「厳しい」という評判なのですが、私には優しく接していただいた記憶しかありません。いつか豹変されたらどうしようと思っていた時期もありましたが、いい加減な者には冷たく、真面目に研究を行おうとしている者には協力を惜しまない人のようだとわかってきました。プレヴォタ先生からは、研究遂行のための自由を最大限に与えていただき(もっともこれは放任と紙一重ですが)、私にとってはボベロ、プレヴォタという対照的な指導教授を2人持てたことが幸せでした。私のテーズだとカトリックの歴史があまり出てこないので、プレヴォタ先生としては、ブロンデル、ラベルトニエール、ロワジーあたりをもう少し論じてほしかったという感じのようでしたが、基本的には強く賛意を示し、他の審査員に対しても、私の立場を擁護してくださいました。
 3番手は、パリ第13大学のジャックリーヌ・ラルエット教授。彼女からは、野心的な企てを高く評価していただきながらも、細かなさまざまな間違いや、記述の弱い側面、論述の進め方の問題点について指摘を受けました。フランス人の研究者にとっては自明の論述も多いから、フランスでの出版を考えるなら、150ページから200ページくらい削りなさいとのこと。私ならこことここを削るよう言えますがね、との話(それでしたらお時間のあるときにぜひとも一度それに従って直してみていただきたいのですけれども)。
 4番手は、パリ第1大学のフィリップ・ブトリー教授。審査員のなかで唯一、事前の面識がなかった先生でした。巨漢の体躯を揺らしながら、メガネの奥にときおり優しさが覗くといった感じの印象で、かなり丁寧に論文の筋道を辿ってくださいました。細かいところの批判も受けましたが、全体としては、ここ15年くらいの研究状況をよく消化した上で、外からの視点(外国人としての視点)でフランスの宗教史、政治史、ライシテの歴史、教育史に新たな光を当てているとのコメントでした。これだけ言ってもらえたら、私としては感謝に打ち震えるほかはありません。それから、ブートリー先生からは、ゴーシェを暗黙の参照項にしていませんかと聞かれました。私はゴーシェの全貌がわかるほど読んでいませんが、宗教史については多分こうだろうという理解は持っていて、それについてはテーズでも陰に陽に使っています。
 5番手は、リール第三大学のジャン=フランソワ・シャネ教授。アントワーヌ・プロ、モーリス・アギュロン、モナ・オズーフなどの弟子に当たる教育史畑の先生です。応じるのが大変だったコメントは、ベルクソンの二源泉にまで実質的に手を広げているのに19世紀というのは歴史家としてやはり引っかかるというもので、これはテーズのなかでも論述の手続きについて周到に論じたつもりのものでしたが、シャネ先生としては、やはり1920年代30年代まで手を広げるよう匂わせているようでした。それでも全体としては、複雑なテーマをよく自分の問題にひきつけて切り開いたということで、コメントの最後にクローデルの言葉を贈られました。これはその場で聞いていてよくわからなかったのですが、後からフランス人の友人があれは美しかった、最大級の賛辞だと思うとのことでした。日本の大使も務めたクローデルには、能について論じた文章があるそうで、そこで彼は「耐え抜いた末の学習」というものを能のなかに見たようです。シャネ教授は、私のテーズを読みながら、このpatienceとapprentissageという言葉が常に去来していたというのです。
 最後6番手のダニエル・デュビュイッソン教授は、ポジティヴなところは他の人が今まで言った通りとして、フランスの宗教学の形成史をもっと外国(特に英独)の学問事情との関係でとらえるべきではないか、あなたのなかには歴史家・社会学者というより哲学者が幅を利かせているのではないかといったコメントをいただきました。取りようによっては罠を仕掛けられたかもと思ったので、なんとかかわしました。もっとも、この頃になると疲れがピークに達しており、フランス語で構成的な文章を喋ることがかなり困難になっており、こっちの話は半分くらいしか向こうに伝わらなかったかもしれません。
 6人からいろいろ言われているうちにわかってきたのは、私は、フランスの学者であればすでに言うまでもないことと、これはオリジナルだと思うこととの両方を盛り込んだテーズを書いたのだということ(したがって、前者は不要と感受されたこと)です。それはカトリック文化の素養がない私が、近代のライシテの果たした道徳的役割と宗教に対する科学的視点の発展を軸に、力技で(?)もうひとつの宗教史を描こうとしたということとも深くかかわっています。カトリックプロテスタントユダヤ教といった実体宗教に対する記述がほとんどないのはマイナス材料かもしれませんが、それでも19世紀の宗教史を新たな角度で語っていることの驚きがプラスのはたらきをしてくれたのだと思います。審査員から伝えられた結果は――伝えられた時点では結果の審級がわからなかったので、何と言われたのか、どのくらいの程度のものかよくわからなかったのですが――très honorable avec félicitation à l’unanimitéというもので、これ以上を望むことはできないというものでした。6人の先生方と握手を交わすと、みな満面の笑みで迎えてくれました。このひとつひとつの顔を長いあいだ覚えていたいものです。

 実は奇縁ながら、まったく同じ日の若干早い時刻に、日本の新進気鋭のベルクソン研究者であるhfさんもテーズの審査を行っており、彼と彼の指導教官であるフレデリック・ヴォルムス先生がレセプションに加わってくれました。
 審査が終わったのが遅く、またパリからの先生も多かったので、皆がいるレセプション自体はそんなに長くは続きませんでしたが、プレヴォタ先生は、今夜はリールにいる娘さんのところに泊まると言って、最後までつきあってくださいました。「あなたのもとで勉強できてよかった」と言うと、「指導教官として、あなたのようなテーズ書きにいつも出会えるわけではない」とのこと。この言葉も、ずっと覚えていたいものです。
 最後になりましたが、ストゥナンスに駆けつけてくれた方々、遠くから気にかけてくださっていた方々に、厚く御礼申し上げます。(き)