ニコラ・サルコジの宗教政策、あるいはライシテの行方

 国際宗教研究所ニュースレターに表題の論文を寄稿しました。
 同研究所は、宗教研究者と宗教家の接点となるような役目を果たしており、多くのシンポジウムや講演会を行い、年報『現代宗教』や年4回のニュースレターを発行しています。詳しくはコチラをご覧ください。
 ニュースレターの発行部数じたいは多くなく、なかなか多くの方の目にとまるというわけにはいきません。記事をブログなどで公開してよいかと問い合わせたところ、快く承諾していただきましたので、ここで改めて感謝申し上げるとともに、以下に転載させていただきます。
 ちなみに、書誌情報は次の通りです。伊達聖伸「ニコラ・サルコジの宗教政策、あるいはライシテの行方」『国際宗教研究所ニュースレター』56号、2007/3、pp.14-23.

 2007年5月、フランスの新大統領にニコラ・サルコジが就任した。前年末に大統領選への出馬を正式に表明して以来、彼は終始有利な立場に立って選挙戦を展開した。一次投票では30パーセントを超える票を獲得し、決選投票では社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル候補を振り切って当選を果たした。
 第五共和国の第6代大統領となるこの政治家は、社会保障制度や雇用政策にメスを入れ、福祉国家フランスを自由競争重視の路線に方向転換させつつある。日本人にもピンとくる言い方をすれば、いわば「痛みをともなう改革」によって、現代フランス社会が抱えているさまざまな問題に対する解決を図っていくものと見られる。
 こうしたことから、サルコジ親米派で、従来のド・ゴール主義――アメリカと一定の距離を保ちつつ独自の外交を展開し、国内経済に一定の介入を行う――とは違う立場だと目されている。その一方、ジャン・ジョレスやレオン・ブルムを引用するなど、ソシアルで平等主義的なフランスを理想に掲げるサルコジの姿もある。そうかと思えば、2005年秋に郊外で起こった「暴動」に加わった若者たちを「社会のクズ」呼ばわりしたり、厳しい移民政策を取ったりするなど、国家の権威に訴え国内秩序を重視する極右まがいの言動も散見される*1
 サルコジには、こうした一見相容れないはずの諸傾向を共存させながら、状況に応じて舵を右にも左にも切って見せるところがある。したがって、彼の言動には場当たり的なところがあり、その矛盾点を拾い上げるのはさほど難しくない。だが、彼のこうした手法がフランスにおける新しい政治のあり方を映し出しているのだとしたら*2、いかなる「一貫性」がかくも矛盾に満ちた言動を可能にしているのかと問うことも重要だ。
 以下ではこのような角度から、サルコジの宗教政策を検討したい。彼はシラク大統領の二期目に当たる5年間のうち、正味4年近くものあいだ内務大臣を務めた*3。フランスでは内務大臣は宗教担当大臣(ministre des cultes )でもあり、サルコジは宗教政策に積極的に関与した。その取り組みには、ある程度一貫したロジックが見られるが、その一方で矛盾にも満ちており、変節と言ってよいものさえ窺える。ここにはサルコジ「らしさ」の一端が象徴的に現れており、彼の政治手法を理解するのに役立つだろう。のみならず、この先フランスにおける政治と宗教の関係を定めたライシテのあり方が変化していくとすれば、どのような方向であるかを占うに当たっても有益だろう。


CFCMの設立

 サルコジが内務大臣に最初に就任した2002年5月という時期は、前年米国で起こった9・11の衝撃が冷めやらず、また国内では極右政党国民戦線(FN)の党首が大統領選の決選投票に進むという番狂わせ(いわゆるルペン・ショック)があったばかりで、およそ500万人と言われる国内のイスラム教徒をいかに共和国に統合するかが改めて焦眉の急となっていた。
 こうした状況でサルコジは、「イスラム問題」を上手に解決すれば、政治家としての自らの名声を高め、また次期大統領への道も開けてくるだろうと、かなり早い段階で理解したと考えられる*4
 そこで彼が腐心したのは、フランスに長らく不在であったイスラム教の代表機関の設立である。代表機関の設置は、歴代内相も熱心に取り組んできた課題であったが、難産が続いていた。ピエール・ジョクスが1990年に開いたCORIF(フランス・イスラム諮問会議)は、純粋な検討委員会といった性格を抜け切れずに立ち消えとなり、シャルル・パスクワが1995年に設けたCNMF(フランス・ムスリム全国調整機関)は、アルジェリア系穏健派のパリの大モスクを偏重するきらいがあって、多様なムスリムの現状を反映しきれていなかった。ジャン=ピエール・シュヴェヌマンはこのため、一部のムスリム団体を特権化するのではなく、選挙によって評議会を作るべきだと主張した。こうして社会党の内相の主導のもと(シュヴェヌマンおよび後任のダニエル・ヴァイアン)、多様なフランスのイスラムの姿を映し出す方向で代表機関の設立準備が進められた(1999年〜2002年)。ただし、そのなかにはムスリム同胞団系で原理主義的傾向が強いと目されていたUOIF(フランス・イスラム組織連合)なども含まれており、与党UMP(民衆運動連合)の内部では、こうした社会党主導の路線を見直すべきだとの声が強かった。
 シラク自身はパリの大モスク(GMP)がフランスのイスラムの象徴であると見ていた。さすがにパスクワのCNMFにまで立ち戻ることは現実的ではないと認識していたが、新しく設立される代表機関を中心的に統率するのは、この穏健派アルジェリアイスラム教寺院をおいて他にないと考えていた。これに対しサルコジは、GMPはフランス国内の多様なイスラム教徒の求心力たりえていないと判断、選挙手続の導入を唱えたシュヴェヌマン路線を継承しつつ、CFCM(フランス・イスラム教評議会)設立の同意へと漕ぎつけた(2002年12月)。
 2003年4月の全国評議会選挙では、157議席*5ムスリム同胞団系のUOIFが53議席、モロッコ系のFNMF(フランス・ムスリム全国連盟)が44議席を獲得、GMPの32議席を上回った。評議会議長にはGMP管長のダリル・ブバケルが据えられたが、同時にUOIFのフアド・アラウイ事務局長とFNMEのモハメド・ベシャリ代表が副議長に任命された。国内最大組織のUOIFを抱え込んだところに、CFCMの大きな特徴があると考えられる。
 このイスラム教の代表機関の設立は、サルコジの内相としての努力が功を奏した結果であるが、いくつかの点に注意を促しておきたい。
 まずは、シラクからの距離の取り方である。もともとサルコジシラクの下で育った政治家だが、1995年の大統領選挙でバラデュールの支持に回ったため、第一次シラク政権では遠ざけられた経緯がある。シラクの二期目で内務大臣の要職に就くと、三選出馬を牽制する意味もあってか、サルコジは事あるごとに現職大統領との違いを出していく。特に内相が大きな権限を持っている宗教問題では、違いが浮き彫りになりやすい。
 次に、サルコジにはCFCMの設立を自分の功績に帰す傾向が非常に強いこと。もちろん、彼の尽力がなければ、この代表機関の設立はなかっただろうが、それは歴代内相が払ってきた努力の延長線上に位置づけられるべきものであるはずだ*6。だが、サルコジの発言に耳を傾けると、ここまで宗教問題に熱心に取り組んだ内務大臣はいなかったという調子がにじみ出ている*7サルコジには「これまでの人間と私のやり方は違う」といった語り口があり、これはライシテの意味を積極的に読み替えようとするときにも表れてくるだろう。
 それから、やはり何といっても、原理主義的傾向が強いと見られていたUOIFをCFCMに組み込んで、ひとつの中心的な支柱にさえしたことである。この点については懸念の声もずいぶん聞かれたが、サルコジは、危険の可能性があるものを組織から締め出し不安を外部に残すよりも、組織の内側に取り込んで監視が及ぶようにしながら、共和国のロジックに馴染ませる方がよいと持論を展開した。事実この後、内務省とUOIFのあいだには、暗黙の協力関係がしばしば成立することになるだろう。
 ちなみにサルコジは2003年10月の時点で、CFCMにUOIFを入れたことについて「羊小屋に狼を招き入れることにならないか」と質問を受けているが、そこでは次のように答えている。「自分のイメージに合ったイスラム教徒だけを選択しておいて、好意を寄せる人たちがいます。寛容というものの正体が、自分に似た人とだけ対話することにあるのなら、そんなものはすぐに限界に達してしまいます」*8。インタヴューの文脈に即せば、少なからぬフランス人が不安を覚える団体をも受け入れた自分の態度こそ本当の「寛容」だ、と言いたいのであろう。だが問題は、果たしてサルコジがそれからUOIF(およびCFCM)をまさに「自分のイメージ」に作り変えなかったかどうか、そうした後も自分のイメージに合わないイスラム教徒と対話する姿勢を持ち続けたかである。


ヴェール問題と積極的差別

 サルコジが最初に内相を務めた2002年から2004年という時期は、フランスでヴェール問題が再燃した時期でもあった*9。その兆候は2002年の末ごろから見られたが、イラク戦争に向けられていたフランス国民の関心が再び国内の出来事に向けられるようになったころから本格的に盛り上がり出した。
 2003年5月、社会学者のピエール=アンドレ・タギエフらが学校でのヴェール着用を法律で規制してはどうかという論考を『リベラシオン』紙に発表すると、政界でも法制化を求める声が高まった。これを受けてシラク大統領は7月、1905年法に集約されているライシテの原則を今日の状況に即して運用するための具体的な提言を行うよう元海外県・海外領土相のベルナール・スタジーに求め、彼を座長とする有識者委員会が組織された。委員会がヒアリングを重ねるなか、秋の新学期には、パリ郊外のオベールヴィリエにある公立高校に通学する姉妹がヴェールを被って登校したことにより、退学処分となった。彼女たちはユダヤ系の家庭の子女ながら、イスラム教に入信しており、原理主義の影響が囁かれるなどして、メディアの話題をさらった。
 公立校でのヴェール着用については、政治家たちは押しなべて反対の立場を取っていた。ただし、法律によって規制するかどうかについては、右派であるか左派であるかに関係なく、意見が分かれた*10
 シラク大統領は、スタジー委員会の報告書を待つ態度を取り、ヴェールを法律で禁じるべきかどうかについて自分の立場を明確にすることを避けていた*11。ただ、この報告書を受けて、ライシテの具体的な運用にかんする法律の制定に移行することになるのを見越していたことは確かであり、実際、11月に入ると賛成の見解を明らかにするようになった*12。これに対し、サルコジ内相は、ヴェール問題に対処するにはこれまでの判例で十分であり、法制化の必要はないと主張した。今法制化に踏み切れば、明らかにムスリムは被害者意識に駆られるというのである。ここにもシラクからの差異化をはかろうとするサルコジの姿が窺えよう。
 もちろんサルコジがヴェール容認派のわけはない。すでに彼は、2003年4月に開かれたUOIFの大会で、身分証明書の顔写真としてヴェールを着用したものは認められないと述べて反発を受けるなど、この問題にかんしては強硬派として知られている。彼にとっては、学校でのヴェール禁止は既成事実なのだ。どうしてこの期に及んで法律が必要なのか。
 むしろサルコジは、自分は宗教問題担当相としてフランスのイスラム教徒の権利のために全力で闘っているのだとアピールしている。彼はこう主張することで、共和国と国内のイスラム教徒との間に権利と義務に基づいた一種の契約関係を作り出そうとする。つまり、共和国がイスラム教に敬意を払っているように、ムスリムもフランスにいる以上ライシテを尊重すべきだというのである。「モスクに入るとき私は靴を脱ぎます。ムスリムの女子生徒が学校に入るときには、ヴェールを脱ぐべきです」*13。公立校でヴェールを外すことは、フランスでイスラム教徒が守るべき義務のひとつであるとサルコジは言う。その代わり、彼は国内のイスラム教徒の共和国への統合をはかるために、一時的に彼ら彼女らを優遇する積極的差別の導入を提案する。
 積極的差別(ディスクリミナシオン・ポジティヴ)とは、英語のアファーマティヴ・アクションに相当するもので、フランス国内でマイノリティとして有形無形の不利益を被っているムスリムに対して有利な権利を与えるなどして、社会統合をはかる政策である。
 このように、ある集団を他の集団と区別しつつ社会的公正を達成しようとするやり方は、個々人こそが一般意志を構成すると考えるフランスのユニヴァーサリズムの伝統に照らした場合、提言としてかなり大胆に響くものである。これはロジックとしてアングロ=サクソン型の共同体主義的な社会統合のモデルに近づくものであるはずだが、サルコジは自分の主張する積極的差別は共和主義の論理だと言う。
 「アングロ=サクソン諸国は、共同体の発展に力を貸しますが、それは外部との連絡を絶った共同体です。私が共同体を梃子にしようと考えているのは、これとは逆で、すべての人間を共和主義的な交流の場に連れて行くためです。これによって真の統合が促進されるのです」*14。つまり、目的はあくまで共和主義的平等であり、そこに至るための手段として、歴史的・社会的・経済的にハンデを背負った者たちに対して公正さのための措置を一時的に講じるべきだというのである。
 サルコジは、法律によってヴェールを禁止するライシテのロジックはイスラム教に対して抑圧的なものだと批判する。これに対して自分が唱導するのは積極的差別を取り入れた「開かれたライシテ」ないし「ポジティヴなライシテ」だと言う。こうした言葉には、ライシテを新しいものにするというイメージを喚起する力がある。サルコジはやがて、1905年法の改正にも意欲を見せるだろう。


宗教とは、治安に役立つものである

 2004年秋、サルコジは『共和国、宗教、希望』というインタビューをもとにした本を出している。そこで彼は、共和国はあくまでこの世の秩序の組織にかかわるものであって、人間の最終的な関心事に応じようとするものではないと述べ、この点で宗教が果たす役割を高く評価している。宗教の発するスピリチュアルなメッセージは共和国の理念に反するのではなく、むしろそれを別の立場から補完するものだと主張している。
 政教分離の原理に立って公私の領域を区別し、宗教の自由を私領域で保障する――これはフランスのライシテの大原則で、サルコジもこれを尊重すると宣言している。ただこれまでは(少なくとも20世紀の歴史が進行しカトリックがライシテの原理を受け入れていくにつれて)、共和国は信仰の領域に介入すべきではないということが半ば暗黙の了解となっていた。これに対し、サルコジは一歩踏み込んで、宗教は共和国理念の実現に力を貸すものであると強調する。
 はっきり言ってしまえば、サルコジは宗教のスピリチュアルな側面に敬意を払いながらも、底のところでは、宗教というものは社会秩序の安定化に役立つと考えているのである。「宗教者やスピリチュアルな関心のある者たち、信仰を持った人たちというのは、〔社会を〕平穏にする要素だと思います」*15
 そしてサルコジは、とりわけ大都市郊外において、なかなか将来に対して希望が見出せず暴力やドラッグに走る若者が宗教を通じて人生の意義に気づき、共和国への統合を果たしてくれることを望んでいる。そのためには、彼らを共和国にとって「危険」な宗教に近づかせるようなことがあってはならない。郊外には、当局が安心できる宗教を常備配置すべきなのだ。サルコジが1905年法改正を唱える最大の理由のひとつは、共和国の価値観を受け入れたイスラム教に対する公的資金の投入を可能にすることによって、原理主義的と見なされる外国からの活動資金の流入を断ち、治安面での役割が期待できるモスクの建設を容易にする点にある。
 このように、サルコジにとっては、治安に役立つか否かが、宗教の善し悪しを判断する大きな基準になる。そして後者に対しては強硬的な態度で望み、前者に対しては協力を惜しまない態度を見せる*16
 このため、宗教の側がサルコジのロジックに従って庇護を求めるという事態も起こってくる。それを最もよく表しているのがUOIFの例である。この団体は、原理主義的傾向が強いと思われていたが、徐々に治安に役立つ宗教という顔を見せるようになる。
 実際UOIFは、サラフィスト(アルジェリアを中心に活動するイスラム過激派で、アルカイーダと連携している)を狩り出すに当たって、内務大臣に協力を惜しまなかった。国内に存在するサラフィストの拠点についてまとめた報告書を受け取ったサルコジは、UOIFの「有用性」を評価した*17
 次第にUOIFは、イスラム教徒はフランス社会の秩序に貢献し、国民に一体感を与えるよう努力すべきだという主張を展開するようになる。スピリチュアリティというものは「共和国が宗教のために設けた場と枠組みにおいて実践されなければならない。ということは、偉大な精神性を担ったイスラム教は、社会平和を確立しまた国民に一貫性を与えるべく貢献するものにほかならない」。これは2005年3月の時点でのUOIF議長タミ・ブレーズの発言だが、サルコジの発言とほとんど区別がつかない*18
 2005年秋に郊外でいわゆる「暴動」が起こると、周知のように内相は強硬姿勢で臨んだ。暴動に加わった者たちのなかにはイスラム系の若者が多いと目されたことから、UOIFはファトワ(宗教法令)を発して、暴力的行動に訴えることをやめるよう彼らに呼びかけた。
 ところがこれは、フランス国籍の若いイスラム教徒たちには大変不評であった。論理の上では、ファトワを発することは、イスラム教を信じる者の良心に介入する行為であり、イスラム教国家であればいざ知らず、ライシテの国フランスでは相応しくないということである。だが、より心情的には、自分たちを代弁してくれてよいはずのUOIFが治安の道具になっていることへの不満があったのではないだろうか。
 かつてサルコジは、UOIFをCFCMに取り込んだ時点では、自分の「寛容さ」をアピールできた。だが今や、国の代表機関に従うつもりのないイスラム系の若者にまで寛容な態度で臨むつもりはない。次期大統領の座を狙う彼にとって、郊外の「暴動」は極右を含めた右翼からの支持を取りつけるいい機会と映ったようである。


1905年法は改正すべきか
 サルコジは、政教分離を定めた1905年法は、共和国の根幹を形作る基本的な法であると言ってその原理を賞賛している。だが、これを時代の要請や課題に応じて変えていくことが必要だとして、2004年頃から同法の改正可能性を積極的に主張しはじめた。
 その要点は以下のようにまとめられよう。フランス国内の宗教は全般的に、財政問題にあえいでいる。聖職者は総じて薄給で、若い聖職者を養成することもままならない。信者たちだけの手で新たな礼拝の場を作り出すのは困難である。こうした状況を踏まえ、国や市町村が宗教に財政援助ができるようにするのが望ましい。とりわけフランス第二の宗教でありながら、歴史的に見て統合の開始が遅れたイスラム教に対して経済上の便宜を図ることが必要であり、モスクの建設やイマームの養成に国庫から支出できるよう1905年法を改正すべきである*19
 この意見は、社会党からだけでなく、シラクやラファラン、ド・ヴィルパンらからも批判されたが、サルコジは、イスラム教徒を共和国に統合するのに必要な手段だと訴えた。フランスでは、1905年法は単なる法律以上の法律だと見る向きが強く、改正には消極的な声が多く聞かれるが、改正の可能性を含めて法律を読み直すことは重要だという認識は少なからぬ識者に共有されている*20
 2005年に再び内相に就任したサルコジは、1905年法から100周年を迎えてライシテをめぐる議論が盛り上がりを見せるなか、同法改正に向けて論陣を張る。「エルサレムテル・アビブでラビが養成されるより、パリの養成機関で教育を受ける方がいい。イマームだって、モロッコで養成されるより、パリで教育される方がいい」*21ユダヤ教も引き合いに出されているが、重点はイスラム教に置かれていることは明らかだ。「イスラム教徒にはモスクが不足しており、地下室やガレージで祈っている。ところでそうした場所こそ原理主義の温床なのだ」。サルコジが目指しているのは、アラブ諸国の資本に頼らざるを得ないのが現状の「フランスにおけるイスラム」(islam en France)を「フランスのイスラム」(islam de France)に作り変えることである。
 このような主張を続ける傍ら、サルコジは2005年10月、宗教と公権力をめぐる法律上の関係を検討する委員会を発足させ、パリ第5大学と高等研究院で教鞭を執るジャン=ピエール・マシュロンに報告書の執筆を要請した。また12月には、急進党党首でナンシー市長のアンドレ・ロシノに対し、公立校や国立病院などの公共機関で守られるべきライシテの具体的内容について報告書をまとめるよう求めた。ライシテと宗教の問題に社会的な関心が集まる時期をとらえて、こうしたモーションを起こすところに、彼の政治的嗅覚が感じられる。
 ところで、1905年の政教分離法は、宗教に対する国の財政援助をあらゆる形式において禁じているのだろうか。確かに同法の第2条には「共和国はいかなる宗教に対しても、公認したり、俸給を支払ったり、補助金を交付したりしない」とある*22。だが、同法を判例にならって柔軟に解釈すると、イスラム教のモスクを新しく建設するのに実質的な財政援助を行うことも十分に可能なのである。それは、建造予定の礼拝の場を99年間という長期賃貸借の扱いにし、それを造るための土地を譲渡するとともに、形式ばかりの極めて安い金額で賃貸しにするという手続きである*23。さらに、礼拝の場に隣接する施設で、直接的な宗教目的には使わない空間、例えば会議室や文化交流の場として使う施設等は、市町村が建設費用を当てることができる。
 1905年法改正に消極的な者たちは、この枠のなかでイスラム教への重点的な援助を行うことは可能だと考える。一方、改正論者は、このようにいわば「偽装」された財政援助は混乱のもとになるから、宗教施設に対する公的資金の投入を正式に認めるべきだと考える。サルコジ自身は後者の立場である。
 2006年9月、ロシノ報告書(13日)とマシュロン報告書(20日)が相次いで内務大臣に出された。ロシノ報告書は、主に以下の点について提案を行っている。病院で患者が宗教を理由として一部の医者の回診を拒むことがないようにすること。学校で生徒が宗教を理由に特定の授業を欠席することがないようにし、子どもにそのような指示を与える家庭とは戦うこと。それから、学校施設等において「ライシテと市民権の憲章」を配布し、ライシテについての理解を促進すること*24。ロシノ報告書に盛り込まれた提案は、ライシテ支持者の多くがそのまま賛同を寄せることができるようなものであり、サルコジもこれらの提案をほぼ原型どおりに自分のディスクールに取り込んでいる。
 一方、マシュロン報告書には、より議論を呼ぶものが含まれていた。礼拝の場所の建設に当たって、市町村が直接財政援助を行うことを正式に認可すべきだという提言が盛り込まれていたからである。同報告書は、1905年法を改正するのだとしたら、どのような条文を新たに付け加えるべきかなどの点について、かなり具体的に記述している。もっとも、1905年法の改正は必至と主張されているわけではなく、地方自治体一般法典を修正することによっても、問題の解決ははかれると述べられている*25
 両報告書を受けてサルコジは、「1905年法100周年はまだ終わっていない」、これから「真の議論が行われることを望む」*26と言って、国内の宗教指導者および宗教関連アソシエーションの代表者らに、報告書への意見を述べるよう求めている。世論においても大統領選挙がかなり意識されるようになった2006年秋という段階で、ライシテと宗教をめぐる議論を再び巻き起こそうとすることは、この問題についての主導権を握っているのは自分だという印象を有権者に与えることにつながる。
 もっとも、1905年法改正を支持する意見はほとんど出てこなかった。カトリックはすでに2005年6月のフランス司教団総会で、「わが国において今日の和平を可能にしたバランスを崩すようなことはしないほうが賢明だと思われる」と1905年法維持の方向性を打ち出している。フランス・プロテスタント連盟(FPF)会長のジャン=アルノー・ド・クレルモンは、マシュロン報告書を評価しながらも、礼拝の場に公的資金を投入することには反対している*27。フランス大東方会(フリーメーソン)元会長のフィリップ・ギュグリエルミは、「サルコジは1905年法を改正しようとすることによって、ライシテを大きく侵害している」、これは「共同体主義と思想の自由の敵に保障を与えることだ」と述べている*28無神論的傾向の強い哲学者アンリ・ペナ=ルイスは、同法改正は宗教のみを利する方向で検討されており、不可知論や無神論の理念に基づいた団体が相対的に不利益を被る、などと批判している。つまり、信じる者も信じない者も等しく扱うライシテの理念に背くというのである*29
 このように、ロシノ報告書とマシュロン報告書は一定の議論を巻き起こしたが、それは宗教界やライシテ問題に直接的にかかわる者たちの注意を引くにとどまり、社会全体を巻き込むようなものではなかった。
 そして大統領選挙においては、雇用政策や社会保障制度の見直しなどが議論の焦点となり、ライシテや宗教の問題はかなり後景にかすむことになった。
 ライシテのあり方をめぐって、サルコジとロワイヤルのあいだに潜在的な対抗軸が形成されていたことは確かである。サルコジ積極的差別を導入することでライシテを「開かれたものにする」と主張していた。これに対して、ロワイヤルは――彼女自身はライシテについて直接発言する機会はあまりなかったが*30――1905年法に謳われたライシテの原理はフランスが今後も守っていくべき価値であり、同法の改正は考えられないとの立場に立っていた。ただし、サルコジは何が何でも1905年法を改正しなければならないと主張したわけではなく、その可能性も視野に入れるべきというだけで、自分もライシテの基本原理には賛成なのだという大前提のラインまでいつでも引き返すことができる。サルコジは、現状では同法改正は現実的でないと判断し、大統領選挙の一次投票直前、「コンセンサスが得られないかぎり、先に進むことはできない」と言って、1905年法改正を断念したと発表する*31
 ライシテと宗教をめぐる問題は、こうして一旦凍結された。実際、大統領に就任したばかりのサルコジにとって、最優先課題は別のところにあった。だが、人びとの関心がまたライシテと宗教の問題に集まってくれば、いつでも自分の存在感をアピールする用意はあるだろう。
 現に、つい先ごろ(2007年12月20日)、サルコジは大統領になってからはじめて教皇庁を公式訪問し、聖ヨハネ・ラテラノ大聖堂の名誉参事官となった。たしかにフランスの国家元首がこの役職に就くのは慣例的なところがあり、第五共和政でもド・ゴール、ジスカール・デスタン、シラクの先例がある。だが、サルコジは演説のなかで、フランスとカトリックの歴史的なつながりをことさらに強調し、篤信のカトリック信者の持つ価値と希望は今日のフランスに必要だと明言した。この発言は、宗教を社会秩序形成や共和国的統合に役立てようとする内相時代からのヴィジョンの延長線上に位置づけられるが、教皇を前にして行われた演説ということもあり、カトリックの重要性が前面に押し出されている。演説のなかでサルコジは、多くのフランス人が1905年法の改正を望んでいない点に触れ、改正には慎重な態度を見せたが、他方で「ポジティヴなライシテ」を唱え、宗教が公的な領域でも一定の位置を見出し、市民のモラル形成の一翼を担うことへの期待を表明した。
 このラテラノ大聖堂での演説は、識者のあいだに波紋を呼んでいる。ライシテ研究の第一人者、ジャン・ボベロは、現在ライシテの原理を受け入れている信者は、サルコジの唱える「開かれたライシテ」の心地よい響きに騙されてはならないと主張する。ライシテの体制においては、信仰の問題はあくまで個人の問題であって、国家の事業ではないのだ。ボベロはまた、サルコジがフランスのルーツは本質的にカトリックだと述べていることにも警戒感を発している。カトリックがフランスの歴史で重要であった事実と、それを政治家が公の場でことさらに強調することは別だというのである*32
 サルコジはこの先、フランスのライシテの姿を変えていくだろうか。彼は国内のムスリムの統合を促進するために積極的差別の導入を唱えたり、1905年法の改正を視野に入れたり、カトリックの伝統を改めて強調するなど、これまでに見られなかった発想と戦略を取り入れている。これは、従来のライシテからの逸脱と映っておかしくない。サルコジは、こうした受け取られ方を十分意識しつつ、プラグマティックな差異を出し入れし、伝統的なライシテの理念に連なってみせたり、新しさをアピールしたりする。これまでのライシテとの違いは、おそらくは状況に応じて、最大化されもすれば、最小化されもするだろう。

 これを脱稿したのが去年の年末で、そのあとも展開があるので、ジャーナリスティックに見ると、この記事じたいにもはや古くなっているところがあります。けれども、今後の展開を見るうえでも一定の枠組みは与えうるものと期待しています。

*1:人口統計学者のエマニュエル・トッドは、それぞれの傾向を、サルコジ1=自由競争を重視する、サルコジ2=共和主義的平等の伝統に連なる発言をする、サルコジ3=権威主義的で国民戦線(FN)支持者の受け皿となろうとする、と分析している。Libération, 10 mai 2007.

*2:例えば社会学者のミシェル・ヴィヴィオルカは、サルコジは「ポスト共和主義モデル」において自分の地歩を固めつつあると指摘している。

*3:2002年5月から2004年3月までと2005年5月から2007年3月まで。そのあいだは財務大臣の職に就いた。2007年3月で内務大臣を辞したのは、大統領選出馬のためである。

*4:Vincent Geisser et Aziz Zemouri, Marianne et Allah : Les politiques français face à la « question musulmane », Paris, La découverte, 2007, p.104.

*5:その他44名の推薦枠があり、全体で201人になる。

*6:実際のところ、CFCMの現出には、シュヴェヌマンに近いアラン・ビロンの尽力が大きいと言われている(Vincent Geisser et Aziz Zemouri, op.cit., p.107.)。

*7:「私は宗教大臣としての責任をきっちり果たしました。前任者たちとは異なり、宗教に対して行儀のよい無関心の態度でいることはありませんでした」。Nicolas Sarkozy, La République, les religions, l’espérance, Paris, Cerf, 2004, p.13.

*8:Le Nouvel Observateur, n°2032, du 16 au 22 Octobre 2003.

*9:この時期のヴェール問題については、国末憲人『ポピュリズムに蝕まれるフランス草思社、2005年、167-201頁を参照。

*10:2003年10月17日のフィガロ紙によれば、法制化に賛成したのは、フィヨン社会問題相(右派)、ダルコス学校教育担当相(右派)、ラング元国民教育相(社会党)、ファビウス元首相(社会党)。どちらかというと賛成の立場を取ったのは、ジュペ元首相(右派)、エロー社会党国民議会議員団長。立場を明確にしなかったのは、シラク大統領、ラファラン首相。どちらかというと反対の立場を取ったのは、バイルー元国民教育相(中道)、オランド社会党第一書記。法制化に反対したのは、サルコジ内相、フェリー国民教育相(右派)、ルペン国民戦線党首、ビュフェ共産党全国書記、オブリ元雇用・連帯相(社会党)(国末前掲書、190頁)。

*11:スタジー委員会は2003年12月、ユダヤ教徒のキッパ、キリスト教徒の十字架章、イスラム教徒のヴェールなど「これ見よがしの表徴」を禁止すべきという提言を盛り込んだ報告書を提出した。報告書にはオープンな提言も含まれていたが、その点は実際には考慮されなかった。報告書に基づき早速法律の整備が進み、2004年3月15日法として成立、同年秋の新学期からの施行が決められた。この法律はヴェールのみを対象とするものではないが、「ヴェール禁止法」と通称されることにも理由がなくはない。

*12:森千香子「フランスの「スカーフ禁止法」論争が提起する問い――「ムスリム女性抑圧」批判をめぐって」内藤正典・阪口正二郎編『神の法vs.人の法――スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』日本評論社、2007年、162頁。

*13:Le monde des religions, septembre-octobre 2003.

*14:Le Nouvel Observateur, n°2032, du 16 au 22 Octobre 2003.

*15:Sarkozy, op.cit., p.20.

*16:このようなサルコジの姿勢は、複合的な意味で「市民宗教」のロジックに連なると筆者は考えている。この点は、拙稿「ライシテは市民宗教か」『宗教研究』354号、2007年で論じている。

*17:Vincent Geisser et Aziz Zemouri, op.cit., p.116.

*18:Ibid., p.117.

*19:Sarkozy, op.cit., pp.146-147.

*20:Yves Charles Zarka (dir.), Faut-il réviser la loi de 1905 ?, Paris, PUF, 2005.

*21:Le Monde, 20 septembre 2005.

*22:ちなみにこの規定は当時ドイツ領であったアルザス・ロレーヌには当てはまらず、同地では今でもナポレオンのコンコルダが有効で、宗教者は国庫から俸給を受け取っていることを指摘しておこう。

*23:これは、もともとは、都市化の発達にともない郊外にカトリック教会を建築する必要が出てきたときに取られた政策である。最近マルセイユの大モスクを建造する際にはこの手続きが取られた。

*24:André Rossinot (président du groupe), La laïcité dans les services publics : Rapport du groupe de travail, septembre 2006.

*25:Jean-Pierre Machelon (président de la commission), Les relations des cultes avec les pouvoirs publics : Travaux de la commission de réflexion juridique, Paris, La documentation française, 2006.

*26:La Croix, 20 septembre 2006.

*27:FRP, « Rapport Machelon : la Fédération protestante de France a écrit à Nicolas Sarkozy », 11 décembre 2006.

*28:Le site d’internet : « Désir d’avenirs entre les internautes et Philippe Guglielmi ».

*29:Henri Pena Ruiz, « Réponse de Pena Ruiz à Sarkozy au sujet du rapport Machelon », novembre 2006.

*30:社会党の支持層には、従来のライシテを遵守すべきだと考える者と、もっとマイノリティーに配慮したものにしてよいと考える者の両方がおり、ロワイヤルが大統領選でライシテの問題に焦点を当てた場合、社会党支持者の票を割るおそれがあったようだ。

*31:La Croix, 3 avril 2007.

*32:http://jeanbauberotlaicite.blogspirit.com/archive/2007/12/22/index.html