国家・中間集団・個人と宗教について少々
稲垣久和『国家・個人・宗教――近現代日本の精神』を読む。
宗教と公的空間ないし公共空間の関係という問題系を掘り下げていきたいという関心からだ。
- 作者: 稲垣久和
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/12/19
- メディア: 新書
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議論はきわめてまっとうだが、やはり近代キリスト教的な強い自我をモデルとするところがあり、そこが気になるところではある。民衆宗教を低く見るような視線を感じないでもないし、西田哲学の理解がこれでよいかという疑問もある。これは、ひいては筆者の処方箋がはたして日本社会に適しているかという根本的な問題に帰着しかねない。ただし、これは認識の立場の違いから来るものとされるべきであって、筆者の現状に対する危機意識は共有されるべきだろう。
一方に「国家」という「公」があり、他方に「個人」という「私」がある。後者が前者に呑み込まれないためには、「宗教」的な覚醒を経た強い自我が「公共」的な連帯を作り上げ、公に対抗するだけの力を作り上げていかなければならない。そのような筆者の思いが、この『国家・個人・宗教』というタイトルに込められていると言ってよいだろう。
フランスとの比較の観点から思うのは、次のようなことだ。日本の文脈だと、「国家」は、「個人」や「公共」的な中間集団の活動を保証するものというより、どうしてもそれらを抑圧するものとして表われてしまう。これに対して、フランスでは、旧体制下における専制的な中間集団のイメージがあり、革命は「国家」がこのような抑圧から「個人」を解放したと了解されている向きがかなりある。
どちらかと言えば左寄りと目される憲法学者の樋口陽一は、誤解されることを覚悟で自分のことを意識的に「国家主義者」と呼んでいるが、それはこのような国家観の違いを踏まえなければ理解できない。
ヴェール問題もしかりで、国家はムスリム・コミュニティーにおいて抑圧されている(ように見える)個人を放っておけないという感覚がフランスにはある。しかるにこの問題は、日本やその他の国では、フランス国家がマイノリティの権利を抑圧しているように受け取られがちだ。
ともあれ、話を戻すと、フランスでは「個人」の自由は「国家」を通じてもたらされており、そのような個々人が作り上げていく「公共」的な市民社会の自由も(少なくとも最近までは)「国家」を通して達成されてきた。そして「宗教」は、「公」からは排除されるものの、「私=個人」と「公共」の両方にまたがるものとして考えられる。
唐突なようだが、このような観点からデュルケムを読み直すことは意義深いはずだ。デュルケムには、中間団体を導入してルソー=ジャコバン的なモデルを修正するなど、「公共」の観点がある。彼の語る中間団体は、時代の制約もあり、国家の傘下にあるというニュアンスが強いが、国家に回収されきれず国家に対して批判力を有するという観点も十分にある。今日において、アソシエーション的なものを考える上でも、彼の著作は古典の位置を占めるべきだろう。
また、デュルケムの「宗教」は、「私」や「公共」だけでなく、何よりもまず「公」のレベルで考えられているところがある。宗教と公をつなげるということは、ライシテとは矛盾しないのだろうか。だが、ここでの「宗教」と「公」の内実は、デュルケムに即してもっと突き詰めていく必要がある。
うーん、デュルケムは、この点では実に微妙なり。