コントの死者崇拝について

 死生学関係で論文を書こうと思って、オーギュスト・コントについてあれこれ考えています。
 彼の死者崇拝論はもっと見直されてよいのではないかと思っています。
 人類教を唱えるコントは、フェティシズムに大きな意味を与えますが、これはフロイト以前のフェティシズムであることを踏まえる必要があります。クロティルド・ド・ヴォーの髪を後生大事にして日々の礼拝を行なうコントの姿は、フロイト的な意味でもフェティッシュかもしれませんが、むしろ「もの」を手がかりに記憶をいきいきとよみがえらせるというニュアンスが強い。コントは人間とは忘れやすいものだと考えており、では忘れないためにはどうすればよいかという観点から、私的ならびに公的な環境を組織しようとしています。

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

他者/死者/私―哲学と宗教のレッスン

 末木文美士の『他者/死者/私』によれば、ほとんどの死の哲学には、他者としての死者という観点が含まれていないとのことですが(その例外として彼はレヴィナスに言及し、田辺元について論じている)、コントには十分そういう視点があると思います。コントは、現在の人間が過去を好きなように解釈できるとは思っていません。むしろ現在は過去に大きく規定されており、現在がなしうることはわずかでしかないと考えている。「生者はつねに、そしてますます、死者によって支配される」。「死者は私たちにおいて、私たちによって、愛し、さらには考えるのをやめない」(コント)。
 死を忘却しがちとされるモダニティにおいては、悲嘆から「快復」することが「正常」とされるのに対し、最近ではそのモデルが見直され、「死後も続くきずな」という考えが受け入れられるようになってきています。この点コントは近代的というよりも現代的で、彼には「喪明け」という概念がなく(この点もコントとフロイトが違う点です)、「永遠の喪」とか「永遠のやもめ」を提唱します。もっともこれは、死別しても再婚できないということですから、それがいやな弟子たちの離反を招くのですが。
 コントの死者崇拝の問題を掘り下げていくと、市民宗教やパンテオンの問題にも接続していきそうです。記憶の政治学とか、自律の世界における政治権力の正当化の宗教性とかにも。
 現代フランス哲学で死の問題というと、レヴィナスとか、ブランショとか、デリダとか、ナンシーとかの名が思い浮かびますが、彼らはみなハイデガーを通過している一方で、コントの存在を忘れているに等しい。こういう知の構図を考えても、死の問題においてコントを「再発見」することはなかなかスリリングかもしれません。