死と死別の社会学(澤井敦)

 澤井敦『死と死別の社会学』を読む。

死と死別の社会学―社会理論からの接近 (青弓社ライブラリー)

死と死別の社会学―社会理論からの接近 (青弓社ライブラリー)

 手際のよい連続講義を聴講し終わったような読後感にひたれる本。死生学の切り口はいろいろあるけれども、社会理論の観点から見通しを与えるとこのような感じになるのだなとわかる。玄人は違う意見を持つかもしれないが、素人目には、ずいぶんバランスよく記述されているように思った。かなりよい見晴らしを得ることができたような気がする。
 わかりやすくするには、死への態度をプレモダン/モダン/ポストモダンという三つの時代に対応させて三つの型を取り出すのはやはり有効であると思わされた。もちろん著者は図式を振り回しているわけではなくて、それぞれの時代に別の時代の特質が浸透していることに十分に自覚しながら、単純な図式を修正することにも意を用いている。というか、そのおかげで、議論に説得力を持たせている。理念型の力に納得させられた次第。
 例えば以下は、トニー・ウォルターの議論に即しながら、モダニティとの対比で現代の死の特徴を活写しているくだり。

 二十世紀半ば以降、抗生物質の開発によって結核など感染症による死は減少し、先進国での主要な死因は、がん、心臓病、脳血管障害といった慢性的な成人病となる。いつ暴力的に、あるいは突然、死に襲われるかわからないといった、死と隣り合わせの生ではなく、むしろゆっくりと「死にゆく」過程を人々は生きるようになる。そこで生じるいわば時間的余裕が、人々をして、自らの死のあり方を考えさせる余地をつくりだしているといえるだろう。このような傾向の具体例としては、次のようなことがあげられる。たとえば、医療スタッフに管理されるのではなく、患者自らが死にいたるまでの生をコントロールするために、末期がんであっても告知をすることが求められたり、ホスピスや緩和ケア病棟といった代替的な手段が求められたり、さらには、患者自ら死を決定する安楽死尊厳死の権利が主張される。また、商業的な葬儀や事務的な葬送ではなく、自分らしい葬儀や、散骨などの自然葬が求められたりする。また死別に関しても、形式的なもの儀礼に終始するのではなく、個人的な悲哀の感情を表出し、他者と語り合うことが求められ、そのために死別をめぐるカウンセリングやセルフヘルプ・グループが興隆する。このように、死のかたちを自ら創造しようとする傾向がポストモダニティでは顕著なものとなる。(pp108‐109)

 いろいろ勉強させられたが、現代社会において、死のタブー視が続いている状況がある一方で、死のタブー視からの解放と見られるような事態が進展しているのをどうとらえるかという第6章「「死のタブー化」再考」などは、構図的には「世俗化論再考」といった議論にも使えるのではないかと思って興味深く読んだ。つまり、現代社会においては、あいかわらず世俗化が進んでいるが、その一方で宗教の復興と言えるような事態もあるが、これらの一見相反する現象をどう整合的に理解するかという問題関心である。もちろん構図が同じようであっても、次元の違う問題だからそのままというわけにはいかないだろうが、構図的に同じ結論を引き出すなら、宗教復興と見える動きが、世俗化の解消に直結するわけではけっしてない、ということになるだろう。
 他にも、エリアスがアリエスを批判していることもこの本ではじめて知った。心性史ということでは、この二人の歴史社会学者には共通点もあるのだろうけど、個人的にはかなり違う印象を抱いていて、二人の接点を考えたことはなかった。それにしても、もしこの本ではじめて二人の名前を耳にする人がいたら、アリエスとエリアスってカタカナで並べて書くと、どっちがどっちかさぞややこしかろう。そんなどうでもいいことにも気づいた(笑)。