私は、退院

 手術からちょうど2週間の今日、ドナーである私は退院することができました。術後1日目や2日目は、自分がこんなに動けないとは思わず、1週間後にはドレーン管を抜いたはよかったものの、思わぬ高熱が出たりして、物心ついてからはじめの入院らしい入院は、予想外のこともありましたが、全体的には順調に回復してきています。まだお腹からの染み出しがあったり、歩くのがやや頼りなかったり、食事の量や体の可動範囲が術前のせいぜい8割程度だったりしますが、もはや痛み止めの服用が必須というわけでもなく、時間が経っていけばいくほど、以前の調子を取り戻せるものと思われます。
 香凜については、妻が手術とその後の様子についてエントリーを書いてくれました。大枠はその通りです。
 香凜の肝臓は、わずか25グラムしかなく(これは新生児の標準の4分の1程度)、ここに私の肝臓を300グラムくらい切り出したものをさらに小さくして95グラム植えつけました。この肝臓を切っていく作業が非常に大変だったそうです。また、血管をつなぐ作業というのが、1ミリと2ミリといった血管を顕微鏡を見ながら縫い合わせるというような難度の高いもので、今回の手術では、肝動脈を1回つないだものの、これではだめだということで、もう一度血管を掘り出してつないだそうで、これに計4時間費やしたそうです。手術がうまくいった報告は、私はICUでほとんど身動きできない状態で聞いたのですが、普段物静かな先生方も疲労と達成感のなかで興奮している様子が伝わってきました。
 それから、これは最初聞いたとき嘘だろうと思ったのですが、A型で生まれた香凜は、血液型不適合の私の肝臓を移植したため、AB型になってしまったのだそうです。何でも聞くところによれば、新生児は自分の血液型が何型であるかをまだあまりよく認識していないらしく、こういうことがあるのだそうです。小児肝移植を受けた子どもたちの親御さんは、よく手術日を「第二の誕生日」というのだそうですが、ある程度は香凜も手術日で生まれ変わったと言うことができるのかもしれません。
 実際、土気色だった肌の色が、2、3日もすると薔薇色に変わったのです。また、生後数日で人工呼吸の管を気管に入れられたので、ずっと泣き声を聞くことができずにいたのですが、手術後数日でそれも取ることができ、泣き声を聞くことができたのです。この感動は格別でした。
 ただ、術後の経過は、ひとつ不安な兆候が後景に退いたら、別の不安な兆候が出てくるといった具合で、一喜一憂を強いられています。例えば最初は、肝臓は順調だったのですが、感染症の疑いを示す数値があがりました。それに対処して数値が下がったと思ったら、今度は肝臓のはたらきが横ばいで、拒絶反応が起きているかもしれないという話が出てきました。また、血中酸素濃度が一貫して低く、レントゲンでも肺が白っぽく映るので、CTを取ってみたら、右の肺が半分、左の肺が3分の1ほど水に浸かっていました。こうなった原因は不明で、対症療法で治るかもしれませんが、危険な感染症である可能性もあるそうです。
 それでも香凜は、今日で月齢1か月になりました。ここまで生きているだけでも、すごいことだと思わずにいられません。でもここまで来たのだから、ちゃんと元気な赤ちゃんになってほしい。ここからあと1週間、よい方向に向かいながら落ち着いてくれば、先の展望も開けてくるのではないかと思います。
 これからのことについては、あらゆる種類の不安があります。まずは、再発、拒否反応、感染症の不安。考えたくないですが、やっぱりだめだったということも、ありえるでしょう。それから障害の不安。今のところ、脳のダメージは進行してはいないようですが、何らかの形で障害が出る確率は高いのではないかと言われています。見立てによっては、意識障害というよりは運動障害だろうとの話ですが、わかりません。軽度かもしれませんが、重度かもしれません。そうすれば、ある意味では今までよりも大変な生活が私たちを待ち受けているかもしれません。そういう心配をよそに、すべてがうまくいったとしても、娘と病院の関係は一生続き、自治医大にはしょっちゅう通わなければならないでしょう。
 このように、いろいろなことを考えますが、実際にふたを開けてみれば展開としてはひとつの形をとるほかありませんから、それにまっすぐ向き合って対処していこうと思います。支えてくださる方々に感謝しつつ。
 私の退院後の生活ですが、とりあえずは入院患者の家族用に供された施設で、自治医大の目の前にあるドナルド・マクドナルドハウスに1か月ほど入り、香凜の様子を見守ります。そのあいだ、用事に応じて東京に出たり仙台に戻ったりします。香凜がよくなることを祈りつつ、私も少しずつ調子を上げていきたいと思います。