「転向」ではないが……

 このたび、日本初の心肺同時移植手術が行なわれたという。このようなニュースは、恥ずかしながら数か月前ならば、そこまでの関心を持たなかったはずだが、今ではつい記事を追ってしまう。すると、ネットの「関連記事」には、しっかり「生後17日で生体肝移植」という記事がリンクされていたりする。
 日本で移植手術に供される脳死者が出るのは、年間平均10件に満たない。これは海外の数字と比べると圧倒的に少ない。もちろん日本には日本の事情があるし、まかりまちがってもよしあしの問題ではないが、移植で救える命があるということを家族として実感すると、これまでとは見方が変わってくるということはある。
 これまでの自分は、漠然と脳死移植に消極的な考えを持っていたのではないかと思う。医者が移植に積極的な考えを持っているとすると、宗教者や宗教学者は概して保守的で――もちろんそれにはそれで社会的な役割がある――、自分の身の回りの環境からして、自然と後者の立場の考えに馴染んでいた。与えられたいのちを与えられたいのちのまま生きればよいではないか、と。
 今ではこの考えを捨ててしまった、というわけではないのだが、やはりこの考えはあくまで観念にすぎなかったのだなとは思う。かといって、移植を積極的に推進する立場に鞍替えしてしまったわけでもない。
 立場からの主張というものをすべき人はいると思うが、自分はこういう環境にいるからこういう立場でこう主張しなければいけないというふうに思い込むことは(少なくとも私にとっては)窮屈だ。いつでもあらゆる問題に対して自分の主張を明確にしておく必要はない。それもひとつの知恵だと思う。とりわけ、自分の状況が変われば主張がひっくり返るかもしれないようなことは、わざわざ主張にしておかないほうがよいと思う。
 ただ、なかには自分を賭して主張すべきこともあるだろう。それが何か、どういうタイミングで何をどう言うのか。その判断についてはいやでも賢くならなければならない。ただ、失敗を怖がりすぎてもだめで、おそらくある程度の失敗から学んでおかなければ、賢明であるべきときに往々にして失態を演じてしまいかねない。
 はてさて。