fenestraeさんから

 fenestraeさんからトラックバックをいただいた。3年以上も沈黙されたあとに発された最初のメッセージにおいて、その受け手のひとりとして特別な想定をしていただいているのだということ――そのこと自体は、実に嬉しい驚きで、たいへん名誉なことだとさえ思っている。しかしそこには、ひとりの若き書き手の死が介在しているので、そう思ってしまうことが不謹慎であるとも感じている。
 まだ一度もリアルでお会いしたことのないfenestraeさんに対する私のイメージは、冷めた理性と熱き情熱を持ち、とてもディーセントなお方。書くときの量とスピードを見ると、これは切れる、優秀だともちろん思うけれども、そういうタイプにはどちらかというと欠けがちな「奥ゆかしい」感じがある(そういえばネット上でしかコンタクトのない猫屋さんなんかもそうですね、またぜんぜん違うタイプだと思いますが・・・)。
 そのfenestraeさんの、yskszkさんに対する追悼のエントリーから引用する。前途有為な若い書き手がブログという形で遺したものは、私たちに何を語りかけてくるのだろうか。

しかしそうしたものより何より、彼の存在を私に感じさせるものが、今でもはてなの日記である。
それは、新しい形の死者とのつきあいかたを要求しているように私は思える。私は彼を最初からネットの人として知った。そしてその最後の最後まで彼は私にとってネットの人、ブログの人だった。というより、はてなというコミュニティの日記の人だった。
yskszkという人の、はてなの日記SNSの日記(そして私は熱心な「フォロワー」ではなかったがそのTwitterのメッセージ)は、何か、閉じられないものとして、いつも、そこに、手を伸ばせば届くところにあるような気がするのだ(彼が自己ドメイン、自己サーバーでブログを書いていれば話はまた違ったのかもしれないのだが)。死者の残した作品、遺作というより、更新が途中でとまってしまったひとつの状態のものとして、宙吊りになりながら生き続けているような印象を与える。そして、私にとっての彼は、彼がそこに書いているそのものがほとんどすべてであっただけに、彼が隣り合せに生きている、あるいは、隣り合せに死んでいるという思いが強まる。私のように1回、1回のエントリーを閉じたテキストとして書いていくタイプの書き手ではなく、彼が、いみじくもスローブログの書き手だっただけに、それはなお強くなる。
すでに少なからぬ人が経験し、経験しはじめていることなのだろうが、ネット空間のテキストとして他人の生とつきあい、閉じられていない生の痕跡とともに、他人の死とつきあっていくという体験はこれから普通のものになっていき、私たちは、そのつきあいかたを憶えていくのだろう。私は id:yskszk という一人の大いなる才能をもった書き手によってその洗礼を受けることとなった。