セリーヌ・ディオンの「闘魂は」

 本務校の「言語と文化」という科目で、なんとかケベックの「インターカルチュラリズム」と「良識的な妥協」を大学一年生にもわかるように説明したいと思い、福祉系の大学なので「良識的な妥協」を障害者に対する「合理的配慮」とも絡めながら説明した。熱心に聞いてくれた人には、勘どころはわかってもらえたのではないかと思う。
 授業では結局は使わなかったのだが、たぶん日本で一番有名なケベック人はセリーヌ・ディオンだろうと思ったので、彼女のフランス語がケベックっぽいところを紹介できないかと考え、フレンチアルバム「D’EUX」を久しぶりに聴いた。私の耳では、彼女の歌声のなかでケベックらしい発音を聞き分けることが難しかった(それで授業に使うことは取りやめたのだ)。
 私にもわかる違いの代表的なものは、「シオン」と「ツィオン」。フランスのフランス語だと、単語の語尾によく出てくる-tionが「シオン」と発音されるのに対して、ケベックのフランス語だと、「ツィオン」と発音されることが多いから、ツの音が非常に印象に残る(たとえばcommunicationという単語は、フランスのフランス語だと「コミュニカシオン」だが、ケベックのフランス語だと「コミュニカッツィオン」で、慣れないと、そういうところばっかり気になって、聞き取れなくなる)。

 で、セリーヌ・ディオンのアルバムに話を戻すと、11曲目のPrière païenne。これって、「私の歌は地上の祈り」、っていうコンセプトだと思うのだけど、天に別れを告げて地上を信じる、それは個人的な信仰だ、みたいな話で、宗教のあとの時代、つまり世俗の時代、ライシテの時代の祈りじゃないかって思った。だとすると、「パイエンヌ」は「ライック」に代えてもいいんじゃないか。

Les mains serrées, ça c’est facile
Fermer les yeux, j’aime plutôt ça
Genoux pliés, pas impossible
Se taire un peu, « Mmm » pourquoi pas
Mais ma prière, elle est qu’à moi
J’y mets tout ce que j’aime, ce que j’espère
Tout ce que je crois
Je prie la terre de toute ma voix
Mais pas le ciel, il m’entend pas
Mais pas le ciel, trop haut pour moi

 天に向かって祈っても、聞いちゃくれない。天は、私には高すぎる。引用文の最後の「トロ・オ・プル・モワ〜」ってところ、私には、応援部時代にこれでもかってくらいに歌っていた「闘魂は〜」に聞こえてしまう。
(↓0分45秒のあたり。ポーランド語(?)の字幕が付いていますが、歌はフランス語。)

 これ、マイナーすぎて、ほとんど伝わらないだろうなあ。
 しかし、「闘魂は」を歌っても、なかなか野球部は勝ってくれなかったわけで、今思い返してみれば、天にまします神に祈っているのにそのみ声は聞こえない、みたいな信義論をもろにライックな地平でやっていたようなものなのだ。
 それが私の世俗の宗教学研究のルーツであります(笑)。