カトリックの恐ろしさ?

 いよいよ師走。世間はこれからいよいよ忙しくなる季節だが、私自身はちょっと気持ちに余裕が生まれてきた。というのも、この秋は予定がいろいろ詰まっていて乗り越えられるか心配していたのだが、大きめの仕事には、いちおうちゃんと目鼻がついてきたからだ。
 とはいえ、本腰を入れて片付けをした部屋がまたすぐに散らかり出すように、ちらほら新しいことが舞い込んできており、結局は世間並みに忙しい年の瀬になるのかなという予感。
 私自身はまだ実績が多くはないので、やりかけの仕事について自分であれこれ言うのは控えめにしている(つもりな)のだが、今仕事をご一緒させていただいている(というかこの仕事に誘ってくださった)工藤庸子先生がたっぷり宣伝されているようなので、私からもちょっぴりこの本づくりについて。
 ルネ・レモンの『ライシテの創造』の本体を訳されているのは工藤先生なのだが、原著者は巻末に資料をつけていて、その訳の担当が私になっている。まあ、カトリックがどうやってライシテを受け入れるにいたったのかということがわかるような資料の選択になっているのだが、資料選択の理由について、ルネ・レモン自身は明確に語っていない。そこのところが何とも微妙で、うがった見方をすると確信犯的にわざと述べていないのではないかと思うのだが、よくわからないとしか言いようがない。
 私自身は、カトリックでもクリスチャンでもないし、カトリックから格別に好かれたいとも嫌われたいとも思わないし、ただ信仰者の世界観に私なりに思いをはせ、想像力によって共感しつつ、でも結局のところは信仰者と同じものを見ているわけではないんだよなということを自覚して、身の程をわきまえながら相手のことはちゃんと尊重したいというだけなのだが、カトリック歴史観というのは、思わず「これって修正主義じゃん」って言いたくなるようなところがときおり(しばしば?)ある。
 共和派から見ると、19世紀のカトリックの教権主義は「絶対主義的」だと思うのだが、20世紀の半ばになると、絶対主義からの「解放」を演出したのは自分たちだというような発言が、カトリックの側から出てくる。あれだけ人権を敵視していたのに、第二ヴァチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」を読むと、信教の自由は神の啓示による、というような話になっている(この宣言は当時かなりの物議をかもし、今でも必ずしも明快ではないらしい)。あれだけ酷く批判されたライシテも、教会の社会教説に適っているということになっている。
 「真理」の担い手の保守性はものすごいのだろうから、そうしたなかで時代に適応しようとしている努力はすごいと思うけど、別の時代の資料と突き合わせてみると、なんか矛盾していませんか、という感じになってくる。でも、これはカトリックの名誉のために言っておくべきだろうけど、そうしたことはカトリックにかぎった話ではないはず。
 ライシテのことは自分なりに一生懸命勉強してきたけれど、カトリックのことはよく知らないなあと思っている私。今回ちょっと勉強して、へえ、そうだったんだと、いろいろな発見をした。日本語で出版された研究書ということになると、フランス司教団のこととかは、あまり研究されてない模様。よくご存じのかたは、きっといると思うけど。
 私はカトリックの専門家ではないので、ちょっと危なっかしところもあるかもしれないが、用語解説については、私なりの力を出したつもり。なので、乞うご期待。というか、なるべく早いうちに仕上げ直さないと・・・・・・
 天はみずから助くる者を助く。救世主の出現を待っていたのでは、クリスマスになっても終わらない。