場の空気からエイジェンシーへ

 重要な決断のとき、最後は自分と言っても、その自分というのは、実はいかにも怪しい。今回のこととは状況が違うが、前にもやや似た経験があって、そのときも自分だけでは決まらなかった。状況的な自分というふうに文脈化したところで、やはりこうだろうと納得し、心密かに決めた。
 これというのは一見、「場の空気」で物事を決めるという、いかにも日本人的と言えそうなところがあって、忸怩たるものを感じている自分もいる。そういうところを卒業して、いちおうしっかりとした自我をと思って、運動部のノリでサラリーマンというのではなく、学問の道を選び、フランスらしいものとも格闘してきたのに、いざというときに先祖返りしてしまっているのではないか。年末、フランス系でお世話になっている先生に、叱り飛ばされるのを覚悟で、「自分で決めると言っても、自分では決まらないところがあるんですよね」と言ったら、「まあ関係のなかにあるわけだし」と好意的に解釈してくださったようだが。
 いかにも古臭さを漂わせる言及かもしれないが、近代西欧の確固たる自我に対し、日本人の「われ」を「汝」の「汝」と定式化したのは森有正だ。しかしこれは、「場の雰囲気」とか「空気を読む」とか言い直せば、今でもそれなりに使えるのではないか。人間関係における「場面の支配」の「弊害」は、少なからぬ人が痛感していることではないかと思う。
 今日、思うところがあって、中村雄二郎「公と私についての考察」(1975年)を読んだ。今指摘した「汝の汝としての日本的自我」(森有正)という論点も、実はこの論文に出てくる。日本の「公」が、「公開性」というより「全体的秩序」による抑圧に傾きがちだから注意せよ、きちんと一人一人の個人に関係づけられた公共性を組織せよ、というメッセージの論文と言えると思うが、その末尾で著者は、日本からなかなか消え去らない「幸福な意識」のことを指摘する。

「〈汝〉の場所の優先」の立場に立てば、「私」は自分で考えることも決断することも、また自分の道を着実に歩むこともしないで済む。ただ「場面」を支配するものに自分を委ねることで恩恵を受けつつ、その「場面」が好転すれば「私」の功績を誇ることができ、逆にその「場面」の形成が悪くなったり覆ったりすれば、自分の「責任」ではないというように言えるわけだ。このようなところに身を置くことの「幸福な意識」はほとんどまだ深傷を負うことなく温存されている。

 一個人のなかにおいて、「私」をからっぽにして「場面」に委ねることと、「私」を文脈化して「場面」に置くことの違いは、実際には容易に反転しうる「躓き」を構成するものなのかもしれない。しかし前者が「場の空気」だとすれば、後者は「私」を「エイジェンシー」としてとらえることであって、これはやはり区別すべきことであろうと思う。選択をあとづけでもいいから本物にすること。これは同時代人になるための努力につながっているはずだ。