政教分離で違憲判決

 北海道砂川市の政教分離訴訟、もちろんライシテの研究者として、日本宗教史をフィールドのひとつとしている者として、また宗教学に携わっている者として、どのような判決が出るか、数日前から注目していたのだが、そして鋭い洞察をしてみたり、気の利いたことを言ったりしてみたいのだが、なかなかうまくできそうにない。
 一番の専門は宗教法ではないとか、言い逃れの仕方はあるだろうけど、歯がゆく感じるのは、新聞各紙の一面(しかもしばしばトップ)を飾る話題でありながら、どうでもいいと思っている人が結構いるだろうなと予測されること。このような訴訟の論点がどこにあるのか、日本の社会や歴史においてどういう位置を占めるべきなのかについて、あまりコンセンサスがなさそうだということ。フツーの人から見ると、当事者の話、非常に専門的な法律の話ということで終わってしまうのではないだろうか。
 ライシテというのは、原理原則があって――たしかにその原理原則をなす要素のあいだに互いに矛盾しかねないものもあるのだが――、それでうまくいかないときには例外規定を認めるという方向性になっているように思うのだが、日本の政教分離というのは、憲法などに定められている原理原則のほうが、しばしば「わが国の実情や習俗には必ずしもそぐわない」などとされ、問題が生じたときには、立ち返るべき原理原則を参照するよりも、これは許容範囲か行き過ぎかを判定しましょうというふうになっているのだと思う。
 判断の基になるのが「目的効果基準」というもので、これに批判的な人なんかは、「ゴムでできた定規」などと揶揄している。つまり、状況次第でいくらでも伸び縮みを変えることができるということだ。ここに曖昧極まれり、というわけだ。
 だとすると、今回の判決では、この「目的効果基準」以外の判断基準として、「社会通念」を持ち出してきた点に、やはり注目しておくべきだろう。林知更東大准教授は次のように語っている(河北新報より)。

 津地鎮祭訴訟以来の「目的効果基準」は諸般の事情を総合考慮するため、政教分離の当否のラインが不明確だった。今回、国家と宗教団体の特別の結びつきは許されないという原則を明瞭に打ち出した点は評価できる。

 この見解にしたがえば、原理原則の方向に歩を進めたということになるだろう。しかも、違憲判決を出しつつ、解決策は解決策で示唆しているのだから、現実的だ。
 それでもよくわかりにくいのは、おそらく空知太(そらちぶと)神社の歴史と現状、地域や市とのかかわりの実情が、なかなか手に取るようには理解できないからだろう。百地章日大教授は次のように指摘する(朝日新聞より)。

 敷地提供の由来や実態を考慮せず、外形的事実だけで違憲と判断している。これではほかの宗教施設の合憲性も問われかねず、混乱が広がるおそれがある。常識や過去の判例に照らしても疑問だ。

 たしかに混乱が広がったら、当事者や関係者はたいへんだと思うのだが、個人的には、多少は広がって、なぜこうした問題が「問題」なのか、歴史的・社会的・法律的な観点から眺め、論点を共有しようという雰囲気が少しは出てきてくれたほうがよいのではないかとも思う。