小児生体肝移植に見る現代日本人の死生観・宗教観

 という研究をはじめようと思っている。自分自身、小児生体肝移植のドナーとなり、この経験は非常に個別的なものだから、胸の内に取っておこうという思いのほうが最初はむしろ強かったのだが、時間とともに、自分の経験から少し距離が取れるようになってきた気がするのと、似たような条件におかれた他の人がどのような経験をしたのか/しているのか――語ってくれるのであれば――知りたい、そういうなかで自分の経験を見つめ直したいという思いが出てきた。
 インタビュー調査という「研究」で明らかにできること、そのような枠組みではやはり表現しえないこと、そのあたりを自分で考えたいとも思っている。当事者性と研究の関係というのも、まあ考える機会になるだろう。
 そういうわけで、3週間ほど前からミクシイのコミュで、応じてくださる経験者を募っており、数名の方とおもにメールを通じてやりとりをしている。質的調査がメインとはいえ、さすがに対象者をもう少し増やす必要があり、お世話になった病院の先生方やスタッフにご協力を仰いだところ、前向きな回答をくださった。倫理委員会を通すべきだろうという話になっており、私のほうでも本務校の倫理委員会にかけあおうとしているところ。今までの自分の研究では、このようなことはしたことがないので、いろいろと新鮮。
 しかし、インタビュー調査ということでは、10年ほど前、「現代日本人の生き方調査」にかかわったことがある。その記録をまとめたのが以下の本。

現代日本人の生のゆくえ―つながりと自律

現代日本人の生のゆくえ―つながりと自律

 耳を傾けながら、深い体験を語っていただくという方向を目指している点において、ここからは学ぶことが多い。
 なお、私が特に小児生体肝移植に注目するのは、自分自身がドナーということがやはり大きいが、現代日本人の死生観・宗教観を探るうえでもいろいろと見通しが得られるのではないかと期待しているところがないでもない。
 (なお、「現代日本人の生き方調査」にならって、ここでいう日本人とは、いわゆる国籍やエスニシティの観点から厳密に規定されるものではなく、現代日本社会の多様性を反映して、日本在住の外国人も含むなど、幅を広く取ってある。)
 まず、日本人の宗教観・死生観の「特殊性」は、脳死臓器移植の問題と絡めてであれば、非常によく語られている印象がある。生体移植が日本で独自の発達を遂げたのも、こうした「脳死を死と認めることへの抵抗」と関係しているはずなのだが、生体移植と宗教観・死生観をつなげたものは少ない。
 次に、生体腎移植の場合、透析などの手段もあるなかの選択肢のひとつとして移植が位置づけられるのに対し、生体肝移植の場合、移植しか助かる道がないという場合が多く、より生死の問題が差し迫っていると言えるところがあるのではないか。もちろん、腎臓の場合でも、移植しか選択肢がないという状況もあるのだとは思う。それでも、一気に移植しかないという状況には、なかなかならないのではないだろうか。肝臓の場合、緩慢な進行もあるが、一気にそういう状態に陥りうる。
 また、成人間の生体肝移植と、小児生体肝移植を比べると、もちろん前者においても、原因がわからずに移植が必要になるケースもあり、そのような場合「なぜ」という問題は強く生じるはずだが、それまでの生活習慣などから、移植が必要な状態に陥る理由が説明できるケースも少なくないはずだ。それに対して、後者の場合、「なぜ」という問いがより鋭くつきつけられるのではないか。このような「限界状況における意味の問題」は、宗教から脱出した社会においても、宗教的な問題として残りうる。
 もうひとつ、成人間の生体移植と比べた場合、小児とりわけ乳幼児には、成人に期待できるような意思を見出すことができないので――親から見た子に「他人」という言葉はふさわしくないにせよ――、レシピエントの「他者性」が高いと言えるだろう。この他者性は、現代の宗教の問題と深くかかわってくるだろう。
 それから、これはまだ私のなかではアナロジーの段階にとどまっているのだが、ウィリアム・ジェームズにしたがえば、宗教的な「回心」をするのは「二度生まれ型」(twice-born)の人間ということになっている。ここで思いを馳せたいのは、移植される臓器は、「第二の命の贈り物」(gift of life for the second time)と言われることがあるということで、移植前と移植後の違いは、回心前と回心後の違いにどこか対応するのではないだろうか。
 もっとも、この最後の点は、小児生体肝移植に限らず、移植全般にかかわってくることだろう。インタビュー調査を通して、こうした問題を突っ込んで考えたり、新しい視点を見つけたりしていきたい。
 えっ、ライシテ研究との関係? いちおう独立していますが、まったく無縁というわけでもないと思っています。