『民主主義と宗教』書評2本

 白水社発行の雑誌「ふらんす」5月号に、三浦信孝氏によるマルセル・ゴーシェ『民主主義と宗教』の書評が載りました。

民主主義と宗教

民主主義と宗教

 マルセル・ゴーシェはポスト構造主義後を代表する思想家の一人だが、多作な上に難解でまだ『代表制の政治哲学』(みすず書房)しか翻訳がない。最初の主著『世界の脱魔術化』(1985)のテーゼを発展させた本書(1998)は、小著ながらゴーシェのエッセンスが詰まっている。それを二人の若い訳者が読みやすい日本語に移し、明快な解題と著者紹介を付して、望みうる最良の訳書に仕立てた。

 訳者冥利に尽きるお言葉で、たいへんありがたいです。解説IIの末尾にもありますが、読める日本語になったのは、南山宗教文化研究所の奥山倫明氏と編集の中嶋廣氏からいただいたアドバイスのおかげの部分が大きいです。

 三浦氏の書評は、大きくは反共リベラルだが、ネオリベにも批判的、というフランス・リベラリズムの系譜に、ゴーシェを位置づけようとしています。

 また、これと前後して、藤本龍児氏による同書の書評が『表現者』に載りました。藤本氏は去年『アメリカの公共宗教』(NTT出版、2009年)を上梓した同世代の研究者で、アメリカ宗教社会学、社会哲学が一番の専門と言っていいと思います。

アメリカの公共宗教―多元社会における精神性

アメリカの公共宗教―多元社会における精神性

 掲載誌の『表現者』は保守系の雑誌ですが、書評自体はゴーシェを簡単に保守に回収するようなものではありません。
 ただ、藤本氏も引いている、本書のゴーシェの最後の文章にある「転倒」をどう理解するかによって、ゴーシェ評価は変わってくるでしょう。

 現代民主主義の論理には、現在すでに矛盾点が垣間見えている。この矛盾点を中心として、政治サイクルの転倒が生じるだろう。いつか、自己統治という理想は、時代の要請によって嫌われ者の役を演じている公の普遍性や集団の統一性といった次元を、不可欠の支点として再評価することになるだろう。

 フランスにいた頃の話ですが、ライシテ関連のシンポジウムに出ていたときのこと、ある登壇者――年配のカトリック科学者でした――が、「ほら、ゴーシェも統一的な理想に回帰したがっている」という趣旨のことを述べて、会場が「いや、それは違う」という雰囲気になったことがありました。彼は、まさにこの最後の部分を引きながら言っていたのですね。休憩時間に、聴衆のひとりは、「彼はカトリックだからあんなことを言う」と言っていましたが。今から思い返して見ると、あのやりとりは、エピソードとして結構面白いものだったかもしれません。