日仏社会学会(11月13日@東洋英和女学院大学)

 来る11月13日(土)、東洋英和女学院大学にて、日仏社会学会が開催されます。参考URLはこちら
 私は、ライシテがテーマのシンポジウムで発表させていただきます。これを機に、日仏社会学会に入会いたしました(させていただきました)。
 プログラムを貼り付けておきます。

タイムテーブル
10:00〜 受付
10:20〜 開会の辞 荻野昌弘(関西学院大学
10:30〜11:20 自由報告
司会:中島道男(奈良女子大学
1.官僚の人事と自律性――日仏比較
尾玉剛士(東京大学大学院/日本学術振興会
2.P.ブルデューの文化変動論――文科系大学学部の職業専門化を事例として
大前敦巳(上越教育大学)
3.デュルケムの理想とした社会の再検討――アノミーならびに拘束、宿命の概念を用いて
杉谷武信(日本大学
4.日本社会における性的倒錯の現象
マスドブリュー・クリストフ(島根大学
12:10〜13:10 休憩(理事会)
13:10〜14:10 総会
14:20〜17:20 シンポジウム
テーマ:「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」
司会:菊谷 和宏(和歌山大学
1.ライシテの彼岸と此岸――フランス現代思想における宗教の問題
藤田尚志(九州産業大学
2.多面体としてのライシテ――政教関係の国際比較のために
伊達聖伸(東北福祉大学
3.フランス社会におけるムスリムの「脅威」
鳥羽美鈴(横浜国立大学
討論者:長谷川秀樹(横浜国立大学)、出口雅敏(東京学芸大学
17:20〜 閉会の辞:三橋利光東洋英和女学院大学
18:00〜20:00 懇親会

 以下は、私自身の発表の予告編です。最近、日本語(環境)でライシテのことを考えるとはどういうことかということを、従来以上に意識するようになりました。どの点をどう強調するかということが、環境認識と自己認識、そしてその(ささやかな)書き換えの試みに連なっているんじゃないか、そんなことも、ようやくながら、見えてきたところがあります。そういうことも伝わればなあと思います。

シンポジウム「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」
第2報告「多面体としてのライシテ――政教関係の国際比較のために」

 ライシテとは、宗教から自律した政治権力が、諸宗教に中立的な立場から、宗教的自由を保障する、宗教共存の理念であり、フランスでは、これが共和国の規範原理になっている。もっとも今日では、このライシテの定義らしきものは、二枚舌的な胡散臭さを漂わせた建前にすぎないと思う向きも少なくないだろう。自由・平等・博愛の名のもとに、ムスリム子女のスカーフやブルカを外させようとするライシテは、イスラームを「遅れた宗教」と見なす同化主義的パターナリズムではないか。ライシテはそもそも絶対主義的なカトリック教会と対峙した左派の原理だったはずなのに、現在では社会のマイノリティを抑圧する右派の原理として、ナショナル・アイデンティティ強化の道具と化しているではないか。
 このような疑念が出てくるのも、もっともであって、ライシテにそうした側面があることは、きっぱり認めなければなるまい。だが、発表者の考えでは、それは克服されるべき一側面であって、ライシテのすべてを表わすものではない。もし私たちの目に(ここでの「私たち」とはさしあたり、日本語で行われる本発表を解する人たち――その大部分と思われるのは、日本語を第一言語とし、日常生活における日本語の使用・運用頻度が高く、教育水準も決して低くない人たち――のことを想定している)、文化多元主義的状況における共生という21世紀的な課題を前にして、ライシテというものが、あまりにお粗末な代物に映るとしたら、むしろ私たちは、どんな情報源をもとに、どんな磁場においてライシテを眺めているのか(あるいは眺めさせられているのか)を、もう少し批判的に考えてみてもよいのではないか(目立った事件を取りあげることで他の潮流を見えなくしてしまうマスメディア?フランス系よりもアングロ=サクソン系の影響が強い日本の学術?)。私たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、痩せ細ったライシテ観を構築しておいたうえで、ライシテは偏狭だと批判しているのかもしれないのである。
 本発表では、現在の通俗的なライシテ理解には、一面的なところがあるのではないかという問題意識を持ちつつ、そのような理解では見えにくい側面にも光を当て、ライシテが多義的で複合的な概念であることを、さらには来るべき社会の共生の原理として再定位される可能性を秘めているのではないかということを、発表者の資質や能力と短い発表時間という二重の制約のなかで、できるかぎり原理的に考えてみたい。
 ライシテの多義性を明らかにしていくことは、予想されるように、ライシテの要素的理解を促すものである。とはいえ、第1に、その諸要素は、3つとか4つとかいう具体的な数字で、いつでも抽象的な文言の形で、数学の公理のように要約できるわけではない。もちろん仮構的な作業として、そのような試みには非常に大きな意義があるが、それは必然的に、当該社会の歴史や文化、あるいは研究者の問題関心を映し出したものにならざるをえないだろう。
 第2に、これに関連して、要素的なライシテ理解は、ライシテの歴史記述の仕方に反映されることを指摘しておきたい。ライシテのこの要素のルーツはどこにあるのかという形で、歴史の見方が規定されてくるわけである(このメカニズムは踏まえておいたほうがよいだろう)。ちなみに、ライシテの諸要素の析出過程と近代化にともなう領域分化は相関的である。そして、そうした諸要素は、たとえば法の領域のように、社会のある領域においては比較的緊密にまとまった形で見出されるが、ライシテの含意はその領域のみには限定されない。ライシテの要素が法の領域に見つかるような社会なら、おそらく多くの社会的事象に何らかの形でライシテの価値観が浸透しているはずで、さらにそれは、ほとんど画定不可能な形で文化全体に茫漠と広がっていよう。
 第3に、ライシテの要素的な理解は、発表者の考えでは、国際比較に道を開くものである。だが、他方では、ライシテを諸要素として抽出することに成功したとしても、それは必ずしも文明や文化の垣根、あるいは国境を容易に越えることができる代物ではないかもしれない。
 以上の3つの断り書きに沿うようにして、以下ではライシテを多面体として提示していきたい。すなわち、(1)アクチュアリティを出発点に、いわゆる近現代社会におけるライシテの構成要素を喚起する、(2)ライシテが多様な要素の束であることを、歴史のある局面から提示する、(3)政教関係の国際比較のツールとしてのライシテの意義を検討する、という順序で議論を進めたい。(1)と(2)では、フランスの事例がメインとなるが、議論はフランスに限定されないはずである。